太田述正コラム#11768(2021.1.9)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その26)>(2021.4.3公開)
「<1351年1月>22日、石塔頼房が細川顕氏に書状を送り、畿内の戦況を報じて上洛を勧めた(薩摩島津家文書)。
・・・これを見る限り、<顕氏は、>この段階でも四国で兵力を養っていた模様である。
注目できるのは、このとき頼房が大隅・薩摩守護島津貞久の所領讃岐国櫛無保(くしなしのほ)の押領をやめるように顕氏に要請している点だ。
この頃、貞久も足利直冬方に転じ、子息師久(もろひさ)を出陣させていたためである。
擾乱の複雑な様相がうかがえる一幕と言えよう。
⇒何度でも繰り返しますが、私は、鎌倉持代以降、近衛家と島津家は一心同体に近かったと見ており、近衛/島津家が後醍醐の親政構想に反対したのは、後醍醐が日蓮主義を信奉していた、より端的に言えば、大陸侵攻を企図していた、ことに共感は寄せつつも、そのリスクの大きさからしても、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の完全実現、すなわち、鎌倉幕府では不完全に終わったけれど、今度こそ清和源氏の嫡流筋に権力を担わせる形での完全実現、が先決であると考えたからだ、と思うのです。
であるとすれば、近衛/島津家は、天皇家親政志向の南朝にも、日蓮主義に関心がない尊氏にも、飽き足らなさを覚えていたはずであり、彼らが、尊氏と直義/直冬と南朝、の三者の間を揺れ動いたのは、(もちろん現世利益追求の側面もあったはずですが、)不思議ではない、ということになります。(太田)
<1351年>2月17日・・・から翌18日にかけて、・・・摂津国・・・打出浜(うちではま)で・・・尊氏<軍は、>直義軍と正面から激突した。
これが打出浜の戦い<(注)>である。・・・
(注44)「尊氏軍は・・・、数の上では優位であったが、戦意に勝る直義軍の前に敗北(惨敗)した。2万はいた軍勢が1000足らずにまで打ち減らされた。結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に尊氏と直義の和議が成立した。・・・
足利尊氏勢
足利尊氏、足利義詮、高師直、高師泰、高師夏、高師世、仁木頼章、赤松範資
足利直義勢
足利直義、細川顕氏、石塔頼房、桃井直常、畠山国清、上杉能憲」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%87%BA%E6%B5%9C%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
<この>戦いは、観応の擾乱において尊氏軍と直義軍の主力が初めて対決した決戦であった。・・・
⇒いかに一種の兄弟喧嘩だったとはいえ、「決戦」に足利氏の係累/家臣しか参加していないのですから、呆れます。(太田)
尊氏は、打出浜から十数キロ西に位置する兵庫にいた。
建武以来、戦場から少し離れた場所に本陣を設置するのが尊氏の常であった。
しかし直義は、これよりもはるかに遠い山城国八幡に居座ったままだった。
かつて建武の戦乱に際し、直義は常に最前線に位置し、勇敢に戦った。
それが今では、後方から一歩も動かない。・・・
ここにも、直義の消極性が如実に現れている。・・・
<敗北した尊氏は、>2月20日、寵童(ちょうどう)の饗場命鶴丸<(注45)>(あえばみょうづるまる)を八幡の直義の許へ派遣し、講和を申し出た。・・・
(注45)饗庭氏直(1335年~?)。「饗庭氏は三河国饗庭御厨を根拠地とする武士で、大中臣氏を本姓とする。・・・<翌>1352年・・・の武蔵野合戦では、僅か18歳にして三番隊六千人を率いた。・・・1354年・・・、元服を行い尊氏の偏諱を受け「尊宣」と名乗り、五位近衛将監弾正少弼に叙任された。・・・1356年・・・には斯波高経の降参を働きかけ、高経を帯同して降参を実現している。・・・優れた歌人でもあり、『新後拾遺和歌集』にその作品が残る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%BA%AD%E6%B0%8F%E7%9B%B4
講和は、師直・師泰を出家させることを条件に成立した。
彼らが出家したのは24日頃のことであった。
この講和条件は、尊氏の方から直義に提示したものだ。
他の高一族や被官たちも120人あまりがこれに倣って出家した。・・・」(105、109)
(続く)