太田述正コラム#11774(2021.1.12)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その29)>(2021.4.6公開)

 「五ヵ月に及んだ直義と南朝の講和交渉は、最終的に決裂した。
 ・・・1351<年>5月15日、南朝の使者が入京し、直義の提案が完全に拒否されたことを告げた。
 北畠親房は、4月27日に直義が提出した事書を後村上天皇に取り次がずに突き返したのである。・・・
 足利尊氏–直義講和期における直義の政治<は、>・・・率直に言って、「失政」と評価せざるを得ない。
 足利直義派諸将の守護職補任や官途付与は、擾乱第一幕で圧勝した割には限定的にとどまった。
 引付頭人には直義派が大量に進出したが、寺社本所領の保護を推進し、武士の権益拡大を抑止する引付方に参入することは、彼らにとって必ずしも利益ではなかった。
 かといって、引付方の判決が実効性に乏しいこともあって、寺社本所の支持を受けたとは必ずしも考えられ<ず>・・・唯一熱心に取り組んだ南朝との講和交渉も、一歩も進展せずに決裂した。
 何より致命的だったのは、将軍尊氏の恩賞充行権を温存したことだ。・・・
 要するに、直義に味方した武士の大多数は、満足できる見返りを得られなかったのである。
 幕政は、事実上の機能不全に陥った。
 兄弟が講和してからわずか一ヵ月ほどで、早くも両派の不協和音が表面化しはじめた。・・・
 義詮は、・・・1351<年>6月頃に自らが所務沙汰を親裁する機関を創設した。
 この期間は、「御前沙汰」<(注50)>と呼ばれる。

 (注50)「観応の擾乱によって幕府官僚の分裂・離反が生じた事から、2代将軍足利義詮が崩壊した評定衆・引付衆に代わる合議体として恩賞方にて開いたのが起源とされている。3代将軍足利義満の時代には幕府組織の再編が進み一時御前沙汰は行われなくなるが、出家していた元管領細川頼之を幕府に呼び戻す際に、幕府役職になかった頼之を幕府の政策決定に関与させるために正式な評定ではなく、出席者の人選に決まりが無く主宰者である将軍の意向が反映しやすい非公式な評定である御前沙汰の形式で評定を行って幕府の政策に関する重要決定を行った。更に頼之の没後、義満は息子義持に将軍職を譲って自らは出家するが、幕府の実権を握り続け、表面上引退しているために自らは召集できない公式な評定に代わって自ら主宰する御前沙汰を開いて幕府の政策決定を行い、将軍義持はこれに従う存在となった。
 6代将軍足利義教は、管領などに対抗して将軍の権威を高めるために、将軍が主宰・臨席する御前沙汰の権威強化に乗り出し、雑訴のみならず所務も御前沙汰の評定対象として加え、実務を担当する右筆・奉行人の中から御前沙汰衆を選んで御前沙汰への参加資格を与えた。これによって、御前沙汰は最終決裁者である将軍とその直臣官僚とも言える御前沙汰衆を中心とする室町幕府における事実上の最高評議機関となった。ただし、管領も自らの被官が務める賦奉行とともに御前沙汰に参加して訴状の受付や将軍への裁許手続に関与している。
 だが、応仁の乱以後には将軍の臨席は減少し、管領も非常設化したことで御前沙汰に参加することがなくなった。11代将軍足利義澄の頃には将軍主宰とされながら実際には将軍が臨席する事は無く、側近である内談衆が決定事項を将軍に取り次いで裁可を得る仕組みとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%89%8D%E6%B2%99%E6%B1%B0

 この御前沙汰において、義詮は御判御教書<(注51)>(ごはんみぎょうしょ)と呼ばれる形式の文書を発給して従来の引付頭人奉書と同内容の命令を下し、直義の権限を侵食しはじめた。」(132、137、139)

 (注51)「足利将軍ないし室町殿(義満以降の政務権者)が,自身の花押もしくは自署を加える直状形式の御教書。一般に,御教書は奉書形式のものが多いが,この御教書は直状である点が特徴である。ただし直状といっても多くは右筆書であり,花押や自署さえ必ずしも自筆とは限らない。足利将軍,室町殿の発給する直状としてはこのほかに御内書(ごないしよ)があるが,武家の政治文書としては御内書は非公式な文書であって,書状に近く日付に年号を付さない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%88%A4%E5%BE%A1%E6%95%99%E6%9B%B8-1166935
 「奉書<は>・・・書状のうち差出者が直接出すのではなく,差出者の侍臣(じしん)・右筆(ゆうひつ)などが主人の意を奉じて出すものを一括していい,綸旨・院宣・令旨・御教書などを含む。鎌倉中期以降,御教書が公式の文書をさす語となったのに対し,奉書は非公式の文書をさすようになる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%89%E6%9B%B8-132116

⇒尊氏が政治の基本(ハイポリティックス)を担い、直義がそれ以外の政治を担う、という役割分担で室町幕府は始まったところ、当時、その体制に、・・但し、尊氏が尊氏/義詮に変化した形で、・・復帰してはいたものの、直義が政治に対する関心を喪失してしまっており、ハイポリティックスがよんどころなく処理されるためには、ハイポリティックスに資するような形でそれ以外の政治が行われることが必要不可欠なのに、勝った側である直義がハイポリティックスにもそれ以外の政治にも消極的になってしまっていた以上、尊氏/義詮の側が、ハイポリティックスにもそれ以外の政治にも手を出さざるを得なくなった、ということであり、そのこと自体に、尊氏/義詮側の悪意はなかったのではないでしょうか。(太田)

(続く)