太田述正コラム#11806(2021.1.28)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その45)>(2021.4.22公開)

 「<1351年>7月末に養父直義が北陸へ没落すると、その報はすぐ・・・一色道猷–直氏父子・・・へ伝えられ、道猷と直冬の交戦が再開した。
 直冬は鎮西探題の地位も当然失ったに違いない。・・・
 ここで注目されるのが、8月8日に直冬軍が肥後国白木原で南朝の征西将軍宮懐良(かねよし)親王<(注76)>の軍勢と初めて戦ったことである・・・。」(207)

 (注76)1329~1381年。「後醍醐天皇の皇子。足利尊氏離反にあたり征西大将軍に任じられ,五条頼元らに守られて出立,四国に渡る。・・・1342・・・年薩摩に行き九州の勤王党菊池,阿蘇ら豪族に擁せられて経略に従事。大宰府に入り,北九州を確保して南朝唯一の地方勢力として重きをなした。この勢威に驚いた足利氏は初め渋川義行を,さらに今川貞世 (了俊) を遣わして勢力の回復にあたらせたため,征西府は圧迫され,大宰府は陥り,親王は退去,・・・75・・・年将軍職を良成親王に譲り筑後矢部に隠居,同地で没したらしい。」
https://kotobank.jp/word/%E6%87%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B-45964
 「1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川了俊に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。
 しかし、明側では「良懐」を冊封したことは既成事実となった。そのため、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」の位を受けるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を詐称する偽使を送らねばならなかった。その足利義満も、当初は明国から「良懐と日本の国王位を争っている持明(北朝)の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒懐良の実母の二条藤子(注77)も素晴らしい人物であり、その叔母の二条為子、ともども、御子左流であるところ、次の東京オフ会の時に彼女らの先祖の藤原定家、と、後鳥羽天皇/上皇、との関係を取り上げる際に、改めて、御子左流嫡流と大覚寺統、ひいては、後醍醐天皇との関係に触れるつもりなのですが・・。

 (注77)1293以降1300以前~1351年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E8%97%A4%E5%AD%90
 [藤原北家御子左流]
 藤原定家-為家-二条為氏-為世-為道-為定
        [二条派]   -藤子(後醍醐天皇側室)—懐良親王
               -為子(後醍醐天皇妃)-尊良親王
                         -宗良親王(征夷大将軍)
               -昭訓門院春日局
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               西園寺実衝(関東申次)   
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E5%AD%90 ←為子
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E9%81%93-17412
 昭訓門院春日局(?~?年)は歌人。
https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E8%A8%93%E9%96%80%E9%99%A2%E6%98%A5%E6%97%A5-1082144 
 西園寺実衡(さねひら。1288~1326年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E8%A1%A1
 「関東申次の役目を預かっていた西園寺家は鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された・・・。建武元年(1334年)に<実衡と昭訓門院春日局の子の>公宗は地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、北条高時の弟である泰家を匿っていた。2人は後醍醐天皇を西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させることで新政を覆そうと謀略した。・・・だが、異母弟の公重の密告で計画が発覚し、日野氏光(資名の子で、公宗の義兄弟にあたる)らと共に、武者所の楠木正成と高師直によって逮捕され、出雲国へ配流される途中に名和長年に処刑された。なお、現職公卿の死刑執行は・・・1159年・・・の平治の乱以来の出来事とされる。
 後に信濃国で北条時行が蜂起する中先代の乱が起こる。建武の新政が崩壊して後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立すると、公重は南朝に仕えたため、公宗の遺児実俊が室町幕府の「武家執奏」に任じられて、以後その子孫が西園寺家を相続することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%AE%97
 (為世の親大覚寺統戦略は、西園寺家工作では、皮肉にも、娘の実子(公宗)では大失敗したけれど、娘ならぬ家女房の子(公重)の方で大成功した、というわけだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E9%87%8D

 いずれにせよ、後醍醐天皇は、自身も偉大な人物だったけれど、その妃達も、既出の阿野廉子も含め、素晴らしい人物揃いであり、彼女達が儲けた親王達も比較的粒揃いであったことが、南朝を、長期にわたって持ち堪えさせたのではないでしょうか。(太田)

(続く)