太田述正コラム#11810(2021.1.30)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その47)>(2021.4.24公開)
「要するに、直義は保守的で秩序の維持者、師直は急進的で秩序の破壊者、これが対立の原因になったとするのが・・・佐藤進一・・・説である。・・・
<しかし、この>佐藤説は、例外が多すぎるのである。・・・
明確な支持層の違いなど存在せず、両派は基本的に同質であった。
否、そんな党派対立など存在しなかった。
明確な派閥が形成されはじめるのは、どんなに早く見積もっても・・・1348<年>正月の四条畷の戦い以降であった。
そして一部の武将を除いて、その構成も最後まで流動的であったとするのが筆者の意見である。
・・・筆者<は>・・・直接的・表面的な契機としては、足利直冬の処遇をめぐる問題が大きかったと考えている。・・・
観応の擾乱は、直冬にはじまり、直冬に終わっ<ていることを想起せよ。>・・・
政治権力に割とありがちな後継者争いがここまで深刻化した理由は、所領問題、特に恩賞充行をめぐる衝突が根底にあったからだと筆者は考えている。・・・
擾乱以前の恩賞充行は全体的に見れば停滞し、全国の武士の所領要求を満足させたとは言えないのである。
こうした恩賞充行の停滞の背景には、実は<担当者たる>高師直自身は土地にさほど執着を持たな<い人物であったから、という>ことも考えられる。・・・
以上から観応の擾乱の原因は、尊氏-師直が行使する恩賞充行や守護職補任から漏れ、不満を抱いた武士たちが三条殿直義に接近しつつあるところに、足利直冬の処遇問題が複雑にからんで勃発したことに求めることができる。・・・
両者の勝敗を分けた最大の原因は、きわめて単純であるが結局は気概の差だったのである。
観応の擾乱が深刻化したのには、災害の影響も無視できないと考える。
そもそも南北朝時代自体が、恒常的に異常気象が発生する時代だったらしい。・・・
<異常気象に起因する>予算<不足のため、>・・・崇光天皇は・・・退位するまで、ついに大嘗祭を行うことができなかった<ほどだ>。・・・
ただでさえ満足のいく恩賞所領をもらえない武士が災害によって年貢を徴収できなくなれば、幕府に対する不満をいっそう強めることは容易に想像がつくであろう。
そうした不満の矛先は、当初は恩賞充行の業務を担っていた執事高師直に向けられ、次いで勝利したにもかかわらず味方の武士たちに報いようとしない直義に向かった。
恒常的な災害の多発も、観応の擾乱を激化・長期化させたと推定できるのである。・・・
⇒「両者の・・・気概の差」をもたらしたものが何であったかについて、ここには出てこないものの亀田と私は異なった見方をしているわけですが、かかる留保付きで、私はこのくだりに異存はありません。(太田)
だが、将軍がいくら積極的に恩賞を分配しても、それだけでは到底足りなかったらしい。
そこで幕府は、擾乱以前は抑制的であった守護による闕所地処分<(注80)>を大幅に認める政策に移行した。
(注80)「鎌倉時代以後、戦による敗者や罪を犯した者の土地などを没収することを闕所と称する事例が登場し、室町時代には専らこ・・・の意味で用いられるようになった。
なお、この場合、対象者の全財産を没収することを「闕所」と称し、一部没収である「収公」との区分が付けられていた。前者の場合は戦いの勝者が、後者の場合は警察権の行使者が獲得し、その自由処分に任された。
前者の代表的なものとして治承・寿永の乱の平家没官領、承久の乱の京方跡闕所、元弘の乱の北条高時法師与党人跡闕所などが挙げられる。
後者の場合、通常は犯人を追捕検断し、裁判で有罪とした者が闕所を行うこととされていたが、多くの場合は裁判で闕所を決定した幕府が獲得し、実際に追捕検断にあたった地頭や荘官などが報償としてその一部の分与を受けた。
闕所となった土地はその仕組上、警察・司法・軍事に関する諸権限を有していた幕府に集中することとなったが、幕府はその一部を自己の直轄領に編入し、追捕検断にあたった者に分与したものの、闕所によって御恩と奉公(土地給付とその見返りである御家人役負担)の考えに基づく主従関係が破綻することは望ましいものではなく、新しい領主を決定しなければならなかった。当然のように前述の一族や本主が給付を求めて訴え、それ以外にも希望者が殺到して幕府の頭を悩ませた。・・・
また、鎌倉時代後期には北条氏一族が各地の御家人の所領を奪った反動により、鎌倉幕府とともに同氏が滅亡すると、北条氏に所領を奪われた御家人たちが本主権を盾に闕所(北条高時法師与党人跡闕所)の給付を求めて後醍醐天皇の建武政権に殺到した。
室町時代になると、室町幕府の闕所処分に現地の守護なども関与するようになり、守護領国制形成にも影響を与えた。
また、有徳人など所領を持っていない武士以外の人々に対しても家屋敷や動産などを没収する闕所が行われるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%95%E6%89%80
有徳人(うとくにん)とは、「鎌倉時代後期から江戸時代まで用いられた語で,富裕な人を意味する。《沙石集(しゃせきしゅう)》の説話などから,領主・農民ではなく,凡下(ぼんげ)身分の借上(かしあげ)・土倉(どそう)・酒屋など,貨幣経済の進展の中で財を蓄えた商人・金融業者を指すことがわかる。成金的色彩が強い。現世利益や滅罪・懺悔のためか,社寺などに莫大な寄進をした例もままみられる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E5%BE%B3%E4%BA%BA-162038
<また、>・・・1352<年>7月24日制定の幕府追加法第56条で、西国の義詮政権は近江・美濃・尾張三ヵ国の本所領年貢半分を兵糧料所として1年に限定して軍勢に預け置く権限を守護に認めた。
これが半済令(はんぜいれい)である。・・・
同年8月21日までには半済の対象地域が八ヵ国に拡大し、やがて年限も拡大して下地の分割も許可された。<(注81)>・・・
こうして諸国の守護は自身や配下の武士に分国内の所領を分配し、支配をいっそう強化することとなった。
同じ守護でも、擾乱前後ではその権力に格段の上昇が認められるのである。」(218、222~225、227、230~231、237~239、241~242)
(注81)「1355年・・・、幕府は半済の拡大を防ぐため、戦乱の収まった国の半済を停止するとともに、戦乱国においても、守護が年貢半分を直接徴収するのではなく、本所(荘園領主)から守護へ納入させることとした。しかし、守護及びその傘下武士たちは、半済を既得権として、荘園・公領へ不当な介入を続けた。当時の流動的で争乱の続く状況の中で、幕府は、武士層だけでなく貴族・寺社層も存立基盤としており、貴族・寺社層の権利保全を図るため、武士による半済の抑制に努めることとなった。
1368年・・・6月、幕府は総括的な半済令(応安の半済令)を発布した。皇族・寺社・摂関領などを例外として、全ての荘園年貢について、本所側と守護側武士(半済給付人という)とで均分することを永続的に認めるものであった。この法令により、守護は荘園・公領の半分の支配権を主張することとなり、各地で荘園・公領が分割され、守護の権益が拡大していった。・・・
半済令に伴う影響としては、荘園が解体への第一歩を踏み始めた点が挙げられる。応安の半済令により、守護は実質的に荘園・公領の半分を簒奪することとなり、荘園の解体が緩やかに進行していくこととなった。
鎌倉期の守護が国内の軍事警察権を持つにとどまっていたのに対し、室町期の守護は、半済で得た権益を元に、軍事警察権のみならず荘園領主や国衙の権能を吸収していった。それと並行して、守護は領国内の武士(国人という。)の統制・支配も進めていった。このようにして、守護は半済を契機として、管轄する国内一円(これを領国という)にわたる支配権を確立していった。そこで、鎌倉期の守護と区別するために、室町期の守護を守護大名とし、守護大名による領国支配体制を守護領国制と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%B8%88
(続く)