太田述正コラム#11828(2021.2.8)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その8)>(2021.5.3公開)

 「興福寺大衆はこれに激高し、以後、一貫して反平氏の立場を採った。
 翌・・・<1180>年には平清盛の五男である平重衡が南都(奈良)焼き討ち<(注15)>を行い、興福寺・東大寺はほぼ全焼した。

 (注15)「平治の乱の後、大和国が自身の知行国になった際、清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視し、大和全域において検断を行った。これに対して南都寺院側は強く反発した。特に聖武天皇の発願によって建立され、以後鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また大衆と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗していた。・・・1179年・・・11月に発生した治承三年の政変で、皇室と摂関家の象徴ともいえる治天の君後白河法皇と関白松殿基房が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間にも危機感が広がり、・・・1180年・・・5月26日の以仁王の挙兵を契機に園城寺や諸国の源氏とも連携して反平氏活動に動き始めた。
 以仁王の挙兵が鎮圧された後の6月、平氏は乱に関わった園城寺に対して朝廷法会への参加の禁止、僧綱の罷免、寺領没収などの処分を行ったが、興福寺はこの時の別当玄縁が平氏に近い立場をとっており、寺内部に平氏との和睦路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされなかった。平氏と興福寺の緊張関係は、平氏の福原行幸後に一定程度緩和されていたが、この年の末に近江攻防で園城寺・興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は12月11日に平重衡が園城寺を攻撃して焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになる。・・・
 12月25日に平清盛は息子の重衡を総大将、甥の平通盛らを副将と<す>・・・る兵を南都に向かわせた。・・・
 放火自体は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、興福寺・大仏殿までも焼き払うような大規模な延焼<が発生してしまった。>・・・
 年が明けて・・・1181年・・・になると清盛は直ちに東大寺や興福寺の荘園・所領を悉く没収して別当・僧綱らを更迭、これらの寺院の再建を認めない方針を示し、再び南都に兵を派遣してこれを実行させるとともに逃亡した大衆の掃討を行わせた。ところが、その後間もない正月14日に親平氏政権派の高倉上皇が崩御、続いて閏2月4日・・・には清盛自身も謎の高熱を発して死去し、人々はこれを南都焼討の仏罰と噂した。また、東国の源頼朝の動きも不穏との情報が入ってきたために、父清盛に代わって政権を継承した平宗盛は、3月1日に東大寺・興福寺への処分を全て撤回した。・・・
 <後白河>法皇は重源を召して再建実務の総責任者である大勧進職に任命、直ちに東大寺の再建に取り掛かることになった。・・・
 興福寺の再建事業はそれまで復興の中心であった摂関家の政治的影響力の低下や朝廷の財政難もあって興福寺自身の手による再建が中心となり、そのために一国平均役として大和国内全体における人夫の徴発や棟別銭の徴収、それに従わない者を処罰するための検断権が朝廷や鎌倉幕府から認められるようになった。興福寺はこれらの権限を根拠として、大衆や組織化されて国民と呼ばれた在地武士らによる実力行使を通じて大和国内における支配を強め、鎌倉時代を通じて正式な守護が置かれなかった大和国の実質的な守護ともいうべき地位を確立することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E7%84%BC%E8%A8%8E

⇒1177年の鹿ケ谷の陰謀を嚆矢として、後白河上皇は、平家滅亡陰謀を展開するのですが、1179年には、近衛基実の正室で清盛の子の平盛子の死去に伴い彼女の荘園を清盛に無断で没収し、次いで清盛の長男の重盛の死去に伴い彼の知行国であった越前国を没収し、更に、正室が清盛の子の平完子である20歳の近衛基通ではなく、8歳の松殿師家を権中納言に任じ、摂関家嫡流の地位を松殿家に継承させる意思を見せつけ、清盛を徴発すると、清盛はクーデタを決行し、後白河を幽閉します(治承三年の政変)。
 これに対し、1180年に(私見では)後白河上皇が仕掛けたのが以仁王の挙兵であり、興福寺・園城寺・延暦寺もそれに呼応する動きがあったこともあり、清盛は福原への「遷都」なる愚行を断行する。
 しかし、「8月には伊豆に流されていた源頼朝、武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしま<い、>この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し<たため、>・・・11月23日、清盛は平安京に還都<し>。12月になると・・・園城寺を焼き払い、近江源氏・・・を打ち破<り、>・・・次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺であった。清盛は背後の脅威を一掃することを決め、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣<したもの>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
だが、これが致命的な自傷行為となり、爾後、清盛の死もあって、平家はつるべ落としに滅亡へと向かうのです。(太田)

 治承・寿永の内乱・・・終結後・・・<興福>寺は再建された。
 鎌倉幕府成立後も、大和国・・・には守護は設置されず、興福寺が事実上の大和守護として君臨した。・・・
 南北朝期の大和<だが、>・・・興福寺は全体として常に北朝方、すなわち武家(室町幕府)方である。・・・
 <とはいえ、近衛家系の>一乗院と<九条家系の>大乗院は、南朝対北朝という対立構図とは無関係に激しい抗争を繰り広げた・・・。・・・
 両門跡は武力を有する宗徒・国民<(注16)>を自派に取り込むために、競って恩賞を与えた。

 (注16)「興福寺の寺僧である衆徒と春日大社の神人である国民」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E6%B0%8F_(%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD)

 この結果、一条院領・大乗院領は宗徒・国民の手中に落ち、門跡による荘園支配は形骸化していった。・・・
 <また、>宗徒・国民は必ずしも武家方ではない。・・・
 <15世紀に入ると、>大和国での紛争は、親幕府的な一条院方衆徒の筒井<(注17)>と、反幕府的な大乗院方国民の越智<(注18)>との対立を軸に展開した。」(6~7、11~12、14)

 (注17)「筒井氏は大神神社の神官・大神氏の一族と言われている。・・・戦国時代に入ると興福寺の勢力が衰退し、大和四家と言われる筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏の勢力が台頭してくる。応仁元年(1467年)の応仁の乱では、河内の守護大名である畠山氏の抗争に巻き込まれて、大和国内は混乱する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E6%B0%8F
 (注18)「大和国に拠点を置いた源頼親(清和源氏の始祖である源経基の孫で源満仲の次男)の末裔」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E6%B0%8F_(%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD) 前掲

(続く)