太田述正コラム#11836(2021.2.12)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その12)>(2021.5.7公開)

 「<嘉吉の(注27)>乱である。>

 (注27)「赤松氏は尊氏挙兵に際して功労あり,外様 でありながら播磨,備前,美作の守護を兼ね,四職家 (→三管四職 ) の一つとして幕府に重きをなしていた。僧門より還俗して将軍となった義教は,幕権の伸長をはかるあまり,幕府に功労のあった一色義貫らを討ち,また満祐の弟の所領を没収し寵愛の赤松貞村に与えた。身に危険を感じた満祐は,結城合戦勝利祝賀のためと称して,嘉吉1年6月24日義教を京都の自邸に招いて殺した。幕府は義教の子義勝を後継者に立て,山名持豊を中心に赤松追討軍を編成し,本領播磨に逃れた満祐を攻めて自殺させた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%AE%E4%B9%B1-43468

 諸大名は、義教に追放ないし処罰された人々に恩赦を出すことを決定した・・・。
 この決定の最大の焦点は、畠山持国<(注27)>の赦免にあった。

 (注27)1398~1455年。「三管四職家のうち、主に第3代将軍足利義満の時代に取り立てられ勢力を躍進させたのは赤松氏、一色氏、そして持国の畠山氏であったが、義満時代に有力な守護大名であった斯波氏や山名氏が弱体化すると、上の三家が将軍権力の障害となるようになった。特に三管領の一角を占める畠山氏は幕政の中核をしめ、代々の将軍にとって目の上のたんこぶであった。
 6代将軍足利義教は畠山満家の死後、「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、特に上記三家に対する干渉を強めるようになった。義教は赤松満祐の同族・貞村を重用し、・・・1440年・・・には一色義貫・土岐持頼が殺害されている。・・・1441年・・・には義教の矛先は畠山氏に向けられ、持国は結城合戦への出陣を拒んだことから家督を弟持永に譲らされ隠居を余儀なくされる。
 しかし、持国以上に義教の行動に恐怖を覚えた満祐が、同年6月に義教を暗殺する事件が勃発する(嘉吉の乱)。持国はただちに挙兵して持永を討ち、家督を奪回した。8月に京都で嘉吉の土一揆が蜂起した時、鎮圧に反対して管領の細川持之と対立する。一揆構成員の中に山城の畠山氏被官が紛れていた事が理由だった。
 7代将軍に義教の嫡子の足利義勝が就任し、赤松氏が討伐されると持之は管領を辞任し、持国が管領となる。・・・
 細川氏<は畠山氏に>対抗<し>、義教に取り立てられた側に肩入れして各大名のお家騒動を誘発させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%8C%81%E5%9B%BD

 失脚したとはいえ河内に隠然たる勢力を保つ持国を放置したまま、幕府軍が<赤松氏を討つために>播磨に下れば、京都は危うくなる。・・・
 <しかし、>持国<に>家督<を戻す>というところまでは踏み込めなかったと思われる。・・・
 <その>持国<が>軍勢を率いて上洛する構えを見せた。・・・
 <そして、結局、>持国<は>家督復帰<に成功>した。
 <1408年7>月14日、越智維通の遺児である春童丸(はるどうまる)(後の越智家栄<(注28)>(いえひで))が蜂起した。

 (注28)いえひで(1432?~1500?年)。「官位は弾正忠、伊賀守、修理大夫、刑部少輔。大和国高取城主。・・・世阿弥の孫・観世十郎大夫を保護し、越智観世を始めたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E5%AE%B6%E6%A0%84

 幕府の命令によって、越智氏の家督は一族の楢原氏が継いでいたが、春童丸はこれを破り、家督を奪取した。
 この行動は畠山持国と示し合わせてのものだった・・・。
 義教に処罰された者たちの復活を目の当たりにして、経覚も動き出した。
 10月2日、経覚は謹慎場所・・・から上洛し、大乗院門主への再任を願った。
 しかし幕府は、奈良近郊・・・への移住は認めたものの、門主への復帰は許さなかった・・・。
 ・・・翌11月15日、経覚は越智以下の国民を率いて禅定院(平家の南都焼き打ち以来、大乗院門主は禅定院を居所とした)に押し寄せ、力ずくで門主に復帰した。・・・
 だが、越智一派の軍事力を利用した結果、経覚は親越智・反筒井の旗を掲げることになった。・・・」(51~52)

⇒呉座には、義教論を展開して欲しかったところです。
 義教の改革の方向性とそれが挫折した理由を彼なりに・・。
 とにかく、将軍が暗殺されただけでも大事ですが、暗殺後に、義教がやったことが次々に覆されていくのを幕府は手をこまねいて見ているほかなかったというのですから、この時点でもはや室町幕府は事実上滅びていた、と言ってよいのではないでしょうか。
 ということは、義教が将軍に就任するより前に既に幕府は事実上滅びていた可能性が大です。
 そんな幕府を義教は再建しようとしたわけですが、どうやったら彼はそれに成功したのか、機会があったら究明してみたいものです。(太田) 

(続く)