太田述正コラム#11838(2021.2.13)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その13)>(2021.5.8公開)

 「一方、大和永享の乱の勝者である筒井氏は内紛を起こしていた。・・・
 経覚や越智・古市ら反筒井勢力は、これを好機と見て筒井氏を圧迫した。・・・
 ・・・1442<年>6月、経覚は上洛して、将軍足利義勝<(注29)>にお目見えした。

 (注29)1434~1443年。将軍:1442~1443年。「6代将軍・足利義教の長庶子として誕生した。母は側室の日野重子であるが、正室の正親町三条尹子の猶子となり、世子として認められた。・・・
 在任わずか8ヶ月で・・・死去した<ところ、>・・・死因は落馬、暗殺など諸説があるが、赤痢による病死が有力であるとされている。・・・
 後任の将軍には、僧侶になることが予定されていた同母弟で8歳の三春(のち義成、義政)が選出された。・・・
 義勝は幼年で政治能力が無かったため、細川持之が実権を掌握し、嘉吉の乱を起こした満祐の討伐を主導した。また、「代初めの徳政」を求めた嘉吉の徳政一揆などを平定した。持之の管領辞任後、畠山持国・山名持豊や生母の日野重子らが実権を握った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%8B%9D

 これにより経覚は大乗院門主への返り咲きを正式に認められた・・・。・・・
 実は一連の動きの背後には、細川持之から管領職を引き継いだ畠山持国がいた・・・。
 足利義教に弾圧され義教横死後に復権した持国は、自分と似た境遇の経覚に親近感を抱いており、経覚ら反筒井勢力を積極的に後押ししたのである。・・・
 <1444年>正月・・・<経覚がかねてより求めていたところの、>成身院光宣<(注30)>・・・治罰の綸旨が出<、>・・・経覚は・・・勢いづいた<が、結局、敗れ、>・・・筒井順永は官符衆徒<(コラム#11404)>の棟梁に復帰し、光宣は再び五ヶ関<(注31)>代官に任じられた。

 (注30)じょうしんいんこうせん(1390~1470年)。「大和国国人・興福寺衆徒筒井順覚の次男。興福寺末寺の衆徒・六方衆の棟梁。僧官としては律師、僧位は法印。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%BA%AB%E9%99%A2%E5%85%89%E5%AE%A3
 (注31)「興福寺は、<当初、>兵庫津の南と淀川に設けられていた5つの関所である「河上五ヶ関(兵庫・神崎・渡辺・禁野・淀)」から関銭収入を得ていた」
https://esho1970.uijin.com/ranzen02.html

 治罰の綸旨も取り消され、勅免の綸旨が出された・・・。
 <その結果、>尋尊<(注32)>は、禅定院に戻ってきた。

 (注32)じんそん(1430~1508年)。「父は一条兼良。・・・1438年・・・室町幕府から罪を得て去った経覚のあとを受けて大乗院に入り、以後70年間在院した。[41年・・・院務初め。]・・・1456年・・・興福寺別当に就任した。のち法務に任じられ、奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任した。応仁の乱(1467年-1477年)では父兼良の日記『藤河ノ記』を兵火から守った(『群書類従』所収)。また、大乗院に伝わる日記類を編纂し、大乗院日記目録を作成した。
 また見聞したことを多くの記録に書き記したが、その日記「尋尊大僧正記」は興福寺に関することだけではなく、この時代を知る上での必須の資料である。この日記と後に門跡を務めた政覚・経尋の日記をあわせて『大乗院寺社雑事記』と呼び、室町時代研究の根本史料の一つとなっている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8B%E5%B0%8A
 「62年・・・継嗣として二条家から政覚を迎え,ついで院務を譲ったが政覚は早世し,その後一条家から慈尋を迎えたが夭折,さらに九条家から迎えた経尋が得度する前に,尋尊は死没した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8B%E5%B0%8A-82169 ([]内も)
 「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)は、・・・約190冊。原本は1450年・・・から1527年・・・までが現存して・・・いる。尋尊の書いた部分は特に「尋尊大僧正記」「尋尊大僧正記補遺」などとも呼ばれ、応仁の乱前後の根本史料とされている。またほとんどの項に紙背文書があり、あわせて貴重な資料となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%99%A2%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E9%9B%91%E4%BA%8B%E8%A8%98
 「古くは和紙が貴重品であったために、使用済みの面を反故(ほご)として、白紙の状態である裏面を利用して別の筆記を行っており、漉返紙と並んで和紙の再利用法として活用されていた。・・・
 紙背文書として用いられた元の文書は廃棄しても差し支えが無い文書、すなわち重要な公文書や民間の権利文書ではなく、日常的事項について書かれた書状など短期的な役割を果たした後は保存の必要が無い(廃棄しても問題無い)文書が多く、それだけに全体の断片のみの情報に限定される可能性の問題はあるものの、紙背文書からは公的な文書では伝えられることのない日常的な情報を見い出すことも可能となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%83%8C%E6%96%87%E6%9B%B8

 経覚に門主の地位を奪われていた尋尊だったが、ようやく<事実上、門主に復帰できたのだ。>・・・
 1453<年>6月、・・・和解の気運が高まり、翌<1454>年12月には経覚と光宣が対面している・・・。
 かくして大和に平和が訪れるかに見えたが、新たな火種が生まれつつあった。
 畠山氏の分裂である。」(52~58)

⇒例えば、「畠山氏の分裂」から、本論を始める、といった形をとり、ここまで記述されてきたところの、大和情勢については、脚注的言及に留めた方が分かり易いのではないか、と、言いたくなります。
 大和の尋尊によって執筆されたところの、「尋尊大僧正記」、という、応仁の乱時代を含む膨大な日記史料が残されていることから、この史料の大和中心の記述に引っ張られてしまっているのではないか、というのが、私の、取敢えずの想像です。(太田)

(続く)