太田述正コラム#11844(2021.2.16)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その16)>(2021.5.11公開)

 「第二は、山名宗全<(注40)>をリーダーとする集団である。

 (注40)山名持豊(もちとよ)(1404~1473年)。「家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄・・・山名時熙の3男として生まれる。
 ・・・1420年・・・に長兄満時が死去し、後継問題が浮上した。・・・1428年・・・に山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍足利義教が自分の側近であった次兄持熙を後継に立てるように命じた。間もなく時熙の病状が回復したために一度は先送りになったが、将軍の意向が示されたことで山名氏は動揺した。ところが、・・・1431年・・・5月には持熙が義教の勘気を受けて廃嫡されたため、・・・1433年・・・8月9日に家督を相続、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。病気がちの父に代わって義教に仕え、・・・1435年・・・には父が死去、同・・・1437年・・・には持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する。・・・
 1441年・・・6月24日に足利義教と共に播磨・備前・美作守護赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出し、領国の播磨で挙兵した満祐を討つため、7月28日に侍所頭人を解かれた後は同族の山名教清・山名教之や嫡男の教豊と共に討伐軍を率いて但馬から播磨へ侵攻。満祐の城山城を陥落させて鎮圧に貢献し、赤松氏の領国を加えて播磨を獲得、5ヶ国の守護となり(教清は石見・美作、教之は伯耆・備前を領有)、山名熙高の因幡も合わせて10ヶ国の守護職を回復して権勢を得た(嘉吉の乱)。だが、一方で赤松満祐を討つ前から持豊は勝手に自らの守護代らを播磨に送り込み、同国内の所領を横領するなど、幕命を無視する行動を続けて<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E5%AE%97%E5%85%A8

 赤松政則<(注41)>を後押しする義政側近集団と敵対する宗全は、義視の将軍就任と義政の政界引退を望んでいた。

 (注41)1455~1496年。「赤松家の第8代当主・赤松満祐の従孫(満佑の弟・義雅の孫。義雅の子・時勝(性存・性尊)の子)として生まれる。当時の赤松家は・・・1441年・・・に室町幕府第6代将軍・足利義教を大伯父・赤松満祐が暗殺するという嘉吉の乱で、幕府軍に攻められて大名家として滅亡していたため、父の時勝と政則は京都建仁寺で養育されていた。政則が生まれる前の年(・・・1454年)に同族の赤松則尚が播磨で挙兵したが、翌年に山名宗全に討たれている。
 ・・・政則の養育には家臣の浦上則宗が務めて主従苦楽を共にし・・・、これが後に大名家に再興した際の政則・則宗体制の原点となった。・・・
 1457年・・・12月に赤松家旧臣らは奥吉野に侵入し、南朝後胤とされる一の宮、二の宮を殺害した。・・・この時に神璽も奪還した・・・。この結果、長禄2年(1458年)8月に神璽は京都に戻り、その功績により赤松家の再興が幕府から認められることになった(長禄の変)。
 幕府が赤松家の再興を認めた背景には、長禄の変における功績の他に山名氏に対する政治背景があったとされる。嘉吉の乱で旧赤松領を分国とした山名氏の勢力は幕府を脅かすほど強大化していたため、赤松家を再興することで山名氏の牽制に当てる狙いがあったとされている。また赤松家再興と所領の付与には細川勝元が積極的に関与していることも確認されており・・・、赤松家を取り立てることで山名宗全に対抗する政治的意図があったとされている。
 赤松政則には幕府から勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘<、等>が与えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%94%BF%E5%89%87

 また、管領には娘婿の斯波義廉を押しこもうと考えていた(管領に就任できるのは、斯波・細川・畠山の三家に限られる)。・・・
 第三は、細川勝元をリーダーとする集団である。
 勝元は管領職を畠山政長<(注42)>に譲っていたが、勝元の支援で家督になれた政長は勝元の影響下にあった。

 (注42)1442~1493年。「政長の父持富は、嫡子のない兄(政長の伯父)の畠山持国の嗣子に予定されていた。しかし持国は、庶子の義就を召し出して後を嗣がせようとしたため、畠山家中に内紛が生じた。持富は間もなく没したが、政長の兄・弥三郎が後を嗣いで義就と争った。長禄3年(1459年)に弥三郎も死去したため、政長は弥三郎派・・・の支持を受けて弥三郎の後継となり、義就と激しい戦いを繰り広げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%94%BF%E9%95%B7

 勝元の政治的立場は、伊勢貞親と山名宗全の中間に位置する。
 勝元は、足利義視を排除する必要を感じていなかったが、一方で足利義政を隠居させる意図もなかった。
 足利義政→義尚という伊勢路線でもなく、足利義政→義視という山名路線でもなく、足利義政→義視→義尚という既定路線の維持が勝元の真意であったと考えられる。
 代々、穏健中道を歩んできた細川氏ならではの政権構想と言えよう。
 これまで見てきたように、足利義政は討伐命令を出したかと思えば赦免し、あまつさえ家督をすげ替える、といった行為を繰り返した。
 義政が決定を二転三転させることが政治・社会の混乱を生んでいることはうたがいな<かった。>・・・
 しかし、義政の気まぐれで周囲の意見に流されやすい性格だけが朝令暮改の原因ではなく、より本質的な要因は、三つの政治勢力のせめぎ合いにあった。」(73)

⇒私は、やはり、本質的な要因は、義政が政治家に向いておらず、芸術と思想のジレッタント的パトロンたることに生きがいを見出した人物であった(注43)ところに求めたい気がしています。

 (注43)「義政<は、>・・・1455・・・年に日野富子と結婚した<頃から、>・・・政務に意欲を失って社寺巡礼や別荘の造営に憂き身をやつす始末であった。・・・1461・・・年には大飢饉の最中に梅津山荘の建築を行い,後花園天皇から詩をもって諷諫されている。・・・父に似ず無気力な性格で,大乱の張本人として後世史家の指弾厳しいが,芸術面で卓抜した指導力と鑑識眼を発揮し,・・・あらゆる機会をつかんで収奪を強行し<てそれを原資に、>・・・禅宗の影響を強く受けた・・・猿楽師音阿弥,河原者善阿弥,画家小栗宗湛,同朋衆相阿弥など優れた芸術家を育て,世に東山文化と総称される。また「同仁斎」扁額の命名で知られるように平等博愛思想を標榜し,被差別民の登用も行った。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%94%BF-14305
 同仁斎(どうじんさい)は、「銀閣寺町慈照寺にある東求堂の一間で,仏間の東北についている北向きの書院をいう。4畳半,付書院と違い棚がある。古来4畳半茶室の濫觴をなすものとされているが,足利義政はこの部屋を書斎とのみ考えていた。」
http://dictionary.nifty.com/word/%E5%90%8C%E4%BB%81%E6%96%8E-103747
 同仁とは、「わけへだてなく、ひろく平等に愛すること。・・・〔韓愈‐原人〕」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%8C%E4%BB%81-580643
 「「原人」<は、>儒家道徳の根源・本質をたずねる論文。天は太陽や月、星、星座の類するものの主をなすものである。地は草木、山川の類するものの主をなすものである。人は東夷・西戎・南蛮・北狄、鳥毛物の類するものの主となすものである。主となすものでありながらその属類を害するということは、主たるものがその為すべき道を正しく行わないということである。このゆえに、聖人は東夷・西戎・南蛮・北狄、鳥毛物の類するものであろうと、漢民族も同一に見て同じく博愛の情をもって「一視同仁」として治め、身近のものに対して「仁」として手厚く施すとともに、遠くのものにものこらず及ぼすようにするのである。」
http://kanshi100x100.blog.fc2.com/blog-entry-1033.html
 善阿弥(1386?~1482年?)は、「室町時代の庭師。河原者という被差別身分の出身ながら、室町幕府の8代将軍足利義政に重用された。善阿弥作と伝えられるものに、・・・相国寺蔭涼軒、・・・花の御所泉殿、・・・高倉御所泉水、・・・相国寺山内睡隠軒がある。応仁の乱の最中は奈良に移り、興福寺大乗院なども手掛けた。・・・子の小四郎らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、および彼の孫の又四郎による作品である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E9%98%BF%E5%BC%A5 
 「中世の被差別民は、一般的に非人と呼称されていたが、河原者、宿の者、散所民、声聞師(唱門師)などに分類できる。この時代、穢多は河原者の別名であった。・・・
 <彼らは、>皮革、屠畜、清掃、造園のほか、芸能業にも従事した。
 中世に穢れ観念が日本に流入した事により大衆から賤視されていたが、一方で善阿弥が将軍足利義政に仕えた事に見られるように、近世ほど他身分から隔離されてはいなかった。また、中世は身分の流動性が非常に高く、五色の賤や近世部落のような固定化された世襲階級ではなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91

 「同仁」の「仁」は、「万物一体の仁」ではなく、偽りの人間主義である、また、日本の禅宗もまた、それが、縄文的弥生人の人間主義性(縄文性)の維持・回復という機能を果たしていることに無自覚である、という問題点を抱えており、だからこそ、義政は、大飢饉の最中に大衆から収奪したり、紛争/戦乱を惹起/放置したり、という、非人間主義的統治を平気で行ったのでしょうが、面白いことに、そんな義政のおかげで、現在に至る、日本文化の粋、が、創造された、というわけです。(太田)

(続く)