太田述正コラム#11848(2021.2.18)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その18)>(2021.5.13公開)
「けれども、細川氏と山名氏との対立を過度に強調するのは誤りである。
両者の間では斯波氏問題(山名宗全は斯波義廉を支援するが、細川勝元は斯波義敏寄り)・赤松氏問題(赤松政則は山名宗全と敵対するが、細川勝元との関係は良好)などの対立があったが、互いに妥協し合い、決定的な破局は避けた。
両者の提携は文正<(ぶんしょう)>の政変<(注46)>で伊勢貞親を追い落とすまで維持されたのであり、細川氏と山名氏の激突を宿命的なものと見るべきではない・・・。」(255)
(注46)「第八代将軍足利義政は父足利義教、或いは祖父足利義満の時代を理想として、将軍権力の回復に努力していた。
その一つとして、義満が幼少の足利義持に将軍職を譲って鹿苑寺から政務をとったことに倣い、自身も早期に将軍職を辞して、次代の将軍の後見人としての立場から政務を取ろうとしていた。ところが、義政と<正室>富子の子は早世しており、将軍職となり得る人物はいなかった。
そこで、・・・1464年・・・11月25日に義政は、弟の天台宗浄土寺門跡義尋を還俗させて、義視と名乗らせた上で将軍後継者とした。この後、義政と富子の間に子供、後の義尚が生まれたが、これに対し、義政・義視の間では義尚成人後、義視から将軍職を譲るという約束、即ち義政→義視→義尚の順で将軍職に就任することが取り決められた。
これに反対したのが、政所執事伊勢貞親であった。貞親は義政の将軍権力を形成した側近集団の筆頭であった。また、貞親は義政、義尚の傳役も務めており、当時の幕府内部における権力は絶大であった。ところが、この両者以外が将軍職に就くことで貞親は自身の権力が減退することを恐れた。また、この頃、諸大名の権力削減を目指していた義政に対し、諸大名たちはその抑圧をかわそうと次期将軍たる義視に近づき始めており、義視が反義政勢力の核となり始めていたという理由もあった。貞親は細川氏や山名氏と親しくない大名と繋がり、将軍派ともいえる勢力を幕府内部に形成。義視の排除を狙った。
文正元年(1466年)9月5日、貞親は遂に義政に義視が将軍職を狙って謀反を起こそうとしていると讒言した。
だが、その夜に身の危険を感じた義視が山名邸、次いで細川邸に逃げ込み、両者に助力を請うた。翌6日には山名氏、細川氏及び親山名、親細川の大名が揃って義政に対し貞親の罷免、殺害を要求。貞親や貞親と親しかった斯波義敏、赤松政則、季瓊真蘂が京都から逃亡。
政変はこれで収まったが、将軍義政は側近勢力の中核であった伊勢貞親を失ったことで、その権力基盤が崩壊。幕府政治に対する政治力を失い、この後幕府内部で表面化した細川派対山名派の政争に関して指導力を失う。そして畠山氏の家督争いに介入できず、やがて・・・応仁の乱へと繋がっていく。」
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%96%87%E6%AD%A3%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
「貞親<(1417~1473年)は、>・・・近江、次いで伊勢へ逃れた。・・・1467年・・・応仁の乱が起こると、義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、・・・1468年・・・閏10月に正式に復帰した。しかし復帰に反発した義視が同年11月に出奔して西軍に擁立され、戦乱が長期化する事態となった(弟の貞藤も西軍に鞍替えした)。また、復帰したとはいえかつてのように重要任務を任されることはなく、西軍の部将朝倉孝景の帰順交渉を担当したこと以外に目立った活動は無かったが、・・・1471年・・・4月に万里小路春房とともに蜂起を企てたと疑われて春房とともに近江の朽木貞綱(貞綱室は春房の妹)の元に亡命して出家、そのまま引退した(交渉は浦上則宗に交代、この騒動の背景に反義視の動きに関わる公家層も巻き込んだ蜂起計画があったとする説もある)、2年後の・・・1473年・・・に若狭で死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E8%A6%AA
季瓊真蘂(きけいしんずい。1401~1469年)は、「臨済宗の僧・・・播磨の赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。・・・1435年<に>・・・将軍に近侍する側近となる。嘉吉元年(1441年)に赤松満祐らが6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の首級を受け取っている。[<赤松氏>の一族であることから]直後に引退するが、・・・1458年・・・に8代将軍足利義政の引き立てで復帰、伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり、京都五山の人事権を握り幕政に影響力を持つ。
同年、赤松氏遺臣が長禄の変で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、赤松政則を当主として再興させた。・・・1465年・・・に義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、三管領の1つの斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入し(一時的に当事者の1人、松王丸<(後の斯波義寛)>を稚児として預かっていた)、・・・1466年<に>・・・文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らと共に失脚した。応仁元年(1467年)からの応仁の乱で近江へ逃れ、<翌年、>義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま<更に>翌・・・1469年・・・に死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A3%E7%93%8A%E7%9C%9F%E8%98%82
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%A3%E7%93%8A%E7%9C%9F%E8%98%82-50229 ([]内)
「武衛騒動(ぶえいそうどう)は、・・・1465年・・・に発生した<、斯波氏がらみの>室町幕府の内紛である。
将軍家政所執事の伊勢貞親は8代将軍足利義政の信任を良いことに、管領家の一つ斯波氏(武衛家)のお家騒動に介入し斯波義敏と斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。将軍家政所執事の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者細川勝元と山名宗全は協力して・・・1466年・・・に貞親を幕府から追放した(文正の政変)。背景に、次期将軍を予定されていた足利義視の排斥問題も絡んでいると伝えられる。
また、当時関東で反抗していた古河公方足利成氏征伐軍の組織の為に家督交代を繰り返したとも推測される。関東における幕府の出先機関の堀越公方足利政知は直轄軍を持たない為、幕府は斯波軍を関東に派遣しようとしたが、義敏が命令に従わず斯波家執事の甲斐常治と合戦に及んで廃嫡されると(長禄合戦)、義敏の子松王丸を家督とした。しかしその後、政知の執事渋川義鏡の子義廉が<斯波氏の養子に送りこまれて>新たに家督になったのは、渋川義鏡が斯波軍を操れる立場にする狙いがあったとされる。
ところが、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚すると義廉の家督の意味はなくなり、再び義敏中心の遠征軍を作り出そうとして復権を画策したのが貞親だとされる。一方的に廃嫡された義廉や宗全一派は反撃に打って出て貞親と季瓊真蘂、義敏や赤松政則を追放、計画は失敗した。
後に勝元と宗全が対立し応仁の乱が勃発すると、義敏父子と政則は将軍義政を戴く東軍に属し、それぞれ武衛家家督・赤松氏家督及び守護職を奪還し、貞親と真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%A1%9B%E9%A8%92%E5%8B%95
⇒(歴代の諸法皇はさておき、)季瓊真蘂のような僧が政府の中で大きな役割を果たしたのは、8世紀の道鏡、以来ではないでしょうか。(太田)
(続く)