太田述正コラム#11852(2021.2.20)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その20)>(2021.5.15公開)
—————————————————————————————–
[上御霊神社]
かみごりょうじんじゃ。「1467年・・・1月18日には、失脚した管領の畠山政長が当社境内の森に布陣し、そこに畠山義就が攻め寄せて上御霊神社の戦いが行われた。この戦いは応仁の乱の前哨戦となったことから当地は「応仁の乱発祥の地」とされる。・・・
そもそもは桓武天皇の時代、各地で疫病が流行していた。これは御霊の祟りであるとして、・・・794年・・・5月、早良親王(崇道天皇)の御霊をこの地に祀ったのが始めだとされる。・・・
863年・・・5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人(藤原吉子)・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らの六所御霊であった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。
後年には祭神のうち伊予親王と観察使(藤原仲成)が井上大皇后と他戸親王に変わり、火雷神と吉備大臣(吉備聖霊)が追加されている。・・・
後年追加された火雷神と吉備大臣(吉備聖霊)の二神について、火雷神は菅原道真、吉備聖霊は吉備内親王、または伝承にある井上内親王が産んだ皇子とする説、さらに火雷神は落雷を司る雷精で、吉備聖霊は鬼魅(災事を起こさせる霊力)であると解釈する説もある。
現在の主祭神(本殿八座)は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。
崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
井上大皇后(光仁天皇の皇后)
他戸親王(光仁天皇の皇子)
藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文室宮田麻呂)
火雷神(以上六柱の荒魂)
吉備大臣(吉備真備)
これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE
⇒上下の御霊神社は、私(わたくし)的に言えば、御霊信仰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
に基づき、桓武天皇構想策定/推進の犠牲となった人々の怨霊を鎮めるために祀ったもの、ということになる。(太田)
—————————————————————————————–
「細川・山名という二者間の利害対立だけが問題ならば、当事者同士の交渉で妥協可能だった。
実際、・・・1474<年>に細川氏と山名氏は諸将に先駆けて講和しており・・・、両家は不倶戴天の敵とは言えない。
けれども、勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標は急増し、参戦大名が抱える全ての問題を解決することは極めて困難になった。
⇒「九州と信濃・・・以東の大名は加わっていない。東軍は将軍を擁する有利な立場から、西軍諸大名の守護職を逐次剥奪し、自派の一族や大名に補任したが、西軍大名も実力をもって新任守護に抵抗し、戦況は長期化、膠着状態の様相となった。・・・
この内乱は、傭兵集団が主要戦力を構成した最初の大規模な戦乱であるといわれる。東軍16万、西軍11万という『応仁記』の両軍の動員兵力には誇張があるとしても、各荘園、郷村からは荘官、在地土豪層を中心に騎馬、半甲冑、人夫で構成される兵団が徴発され、さらに京都周辺では京中悪党、疾走の徒など足軽傭兵が補充された。後者の活躍が目だったのは、地方の農民軍隊では長期の在京が困難だったからである。
<但し、>3年目を経過すると、戦局の中心は地方に移った」
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1-38826
といった基本的な話を呉座が、このまとめの部分でやってくれないのは不親切というものです。(太田)
しかも長期戦になって諸大名の被害が増大すればするほど、彼らは戦争で払った犠牲に見合う成果を求めたため、さらに戦争が長期化するという悪循環が生まれた。・・・
両軍の対立軸が不明確で、両盟主の指導力が限定的だったからこそ、将軍足利義政の終戦工作は失敗を重ねたのである。・・・
<結局、>将軍足利義政を戴く東軍が反乱軍たる西軍を屈服させる形で終戦となったわけだ<。>・・・」(257)
⇒「真に<この>大乱が終息するのは1485年・・・の山城国一揆(注49)成立であり、畿内の農民、土豪の自立、成長が、無意味な守護大名の抗争に終止符を打ったという評価もできよう。」(上掲)といったことに呉座が触れていないのも不親切でしょう。(太田)
(注49)「山城南部・・綴喜,相楽,久世の南山城3郡・・で国人・地侍らが中心となって起こした一揆。・・・12月山城の 15~60歳の国人が集会を開き,これに農民も参加して一味同心し,両軍の国外撤退・・退陣しない場合には国衆(くにしゆう)として攻撃を加えると<した>・・,寺社領の還付・・[もとの持ち主に返すこと]・・,新関 (しんせき) の撤廃,年貢の半済・・これは国一揆が,一面では守護権を継承したことを物語っている。・・を決議し,・・・三十六人衆による自治支配を打立てた。・・・約8年間,行政,警備一切を選挙によって選ばれた惣国月行事が行なった。しかし次第に指導的国人層が分裂し,それぞれ細川,畠山の被官となっていったため自治支配はくずれていった。・・・1493年伊勢氏の山城国守護職就任を・・・認めることによって・・・,一揆は終わった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86-144128
https://kotobank.jp/word/%E9%82%84%E4%BB%98-471343 ([]内)
「南山城は591年・・・に築造された石城であり,・・・王都は,四方を明活山城,西兄山城,南山城,さらに外方を富山城,関門城,北兄山城で守護されていた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E5%B1%B1%E5%9F%8E-1383891
国衆とは、「守護大名の領地に土着していた地侍や有力農民<のことだが、>有力名主層をさす国人との区別は必ずしもはっきりしない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E8%A1%86-55714#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
地侍とは、「南北朝から戦国時代にかけて、荘園、郷村に勢力をもち、戦乱や一揆の際に現地の動向を指導した有力名主層出身の侍。広範な所領をもって一部を手作りし、一部を小作させた。戦国時代には諸大名の家臣となった。また、幕府や諸大名家に属する武士に対して、在野の武士、土豪をもいう。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E4%BE%8D-73161#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
(続く)