太田述正コラム#11860(2021.2.24)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その24)>(2021.5.19公開)
「一方、現実の京都はというと、守護や奉公衆の在国化によって住民が激減し、市街域も大幅に縮小した。
戦国期の京都は、武家・公家を中心とする上京<(注57)>、町衆<(注58)>(まちしゅう)を中心とする下京<(注57)>、および周辺の寺社門前町という複数のブロックから成る複合都市として機能した。
(注57)かみぎょう。しもぎょう。「京都の・・・都市的発展は漸次左京へと移り,都は南北に細長い長方形へと変化していった。これによって,従来の左京,右京という概念にかわって・・・<まず、>上辺(かみわたり),下辺(しもわたり)の称<が>生まれ<、その後、>・・・上京,下京という呼称が生まれてきた・・・。鎌倉時代,上・下両京の境は二条大路辺と意識されていたようで,その通りを境に南北に独立した集落を形成していた。・・・
市制施行時には面積は約30km2で,上京,下京の2区のみであった・・・(現在の両区とは範囲が異なる)」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E4%BA%AC-524144
(注58)「町の人々。町に居住する商人や手工業者。特に、中世末、京都の町々や近江国堅田・摂津国平野・和泉国堺などで地域的に自治的な生活共同体を営み、文化的・経済的に活発な動きをした人々をいう。京都では酒屋土倉などの高利貸業者、下級の武士・公家を含む広汎な層が町組を組織して、月行事を中心に町政を運営し、祇園祭などの行事を執行した。また連歌・能・茶湯などに親しみ、法華宗の信者が多かった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%BA%E8%A1%86-136404
「その本山が本能寺である。平安時代の京童などを継承する概念で近世、江戸時代の町人へと継承される。今日では「まちしゅう」と読まれることが多いが、『節用集』『日葡辞書』などの同時代史料によれば「ちょうしゅう」と発音されていたようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E8%A1%86
⇒呉座が日蓮宗(法華宗)ファクターに全く言及していないことは大いに不満です(コラム#11831参照)。(太田)
数々の「洛中洛外図屏風」<(注59)>は豪華絢爛たる花の都を活写しているが、これは理想の京都を描いた「絵空事」であり、実像とは大きく懸け離れていた。・・・
(注59)「京都を描いた屏風であるのに、どうして「洛中洛外図」と呼ばれるのでしょうか。
京都は<支那>の唐の都の長安をモデルとして築かれたのですが、いつのころからか、西半分の右京(うきょう)を長安城、東半分の左京(さきょう)を洛陽:同じく<支那>の古都)城と呼ぶようになります。けれども右京は湿地帯が多かったために早くにさびれてしまい、長安城という名は有名無実となりました。それに対して左京は発展していったため、「洛陽」が京都 の代名詞となってゆき、それを略して「洛」が京都を意味するようになります。
都の中心線の頂上にあるべき内裏も、14世紀には大きく東へ移動して、現代の京都御所の位置になってしまいます。
洛中洛外とは、京都の町なかとその郊外といった意味のことばです。
桃山時代になって、豊臣秀吉は京都の町をぐるりと取リ囲む「お土居(どい)」を築きます。それは洛陽城の部分に北側と東側をやや足した程度のものですが、「洛中」はそのお土居で囲まれた範囲と考えてよいでしょう。」
https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/46rakuchu.html
「三条西実隆の日記である実隆公記の・・・1506年<の>・・・記述<に>・・・いとこの甘露寺元長から土佐光信作の京都を描いた越前朝倉家発注の屏風を見せられ、珍しく興味深いものだったという感想<があるのが、>・・・洛中洛外図に関する最古の文献史料」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3
⇒「織田信長から上杉謙信に贈られた狩野永徳の作品とされている・・・洛中洛外図屏風・・・<について、>すでにないものであってもあるかのように描く「復元表現」の可能性がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3
という話はあるけれど、呉座のこのような指摘を裏づけるものをネット上ですぐ見出すことはできませんでした。(太田)
応仁の乱が長期化・大規模化すると、両軍とも郷村の武力の取り込みに躍起になった。
幕府が郷村の指導者層に直接命令を下すようになるのは応仁の乱から<だ。>・・・
武家勢力は半済給付の約束を乱発した。・・・
郷村に対する半済給付とは、要するに年貢の半分免除である。
年貢が減って困るのは寺社本所、すなわち荘園領主であって、武家の懐は痛まない。・・・
郷村はこれを逆手に取り、武家勢力が半済給付を約束していない場合にも、軍事協力の代償として半済・・・を要求するようになった。
寺社本所の嘆願を受けて武家勢力は反済停止を命じるが、実効性は乏しかった。
戦乱や天災が起こった時には、為政者は困窮する民衆を善政によって救うべきである、というのが中世の社会通念である。
したがって田中克行<(注60)>が説いたように、戦時の半済給与は「徳政」<(注61)>の一環であり、民衆がこれを要求するのは当然である、という認識があったと思われる。・・・
(注60)1969~1996年。東大文(国史)卒、同修士、同大史料編纂所助手(就任4カ月目に突然死)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%8B%E8%A1%8C
(注61)「本来は、天変地異や疫病の流行などを君主の不徳によって生ずるものとして、それを除くために大赦、免税、貧窮者の債務免除などの際だった善政、仁徳ある政治を行うことであった。しかし中世ではもっぱら貸借、売買の無効、破棄を意味するようになる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E6%94%BF-104787
⇒徳政の意味について、最も簡単な説明は「注60」の通りですが、機会があれば、詳しく掘り下げてみたいと思っています。(太田)
実際、応仁の乱中、京都周辺でこそ土一揆は発生していないものの、他地域ではしばしば見られる。・・・」(265~267)
(続く)