太田述正コラム#11872(2021.3.2)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その4)>(2021.5.25公開)

 「日本の<戦国時代の>戦争は、ほとんどが麦や米を奪うために行われる地域紛争だった。

⇒この場合の「戦争」の定義を鍛代は示すべきでした。(太田)
 
 いわば大名分国の周縁部における、国衆や地侍らを巻き込んだ境界紛争である。

⇒そんなものは「戦争」ではなく「紛争」と称すべきであることを鍛代自身が示唆してしまっています!(太田)

 そこに大名権力が介入した。
 他国に入って兵粮を名目に食料を略奪し、拉致した人々を売買した。
 地域によっては、国境や緩衝地帯に居住した「庶民」(村人・町人)が、「半納」「半手」<(注8)>といって、双方の大名や地頭領主に年貢・諸役を半分ずつ納めて、紛争を回避する術を持っていた。・・・

 (注8)「半手(はんて)とは、戦国時代において対立する2勢力間の境界付近に存在した両属する地域・郷村、あるいはその状態そのものを指す。戦国期特有の現象で、主に東国において用いられた用語であり、西国では半納(はんのう)がこれに近い意味を持った。
 「半手」とは、「相手」(敵)と「当手」(味方)の双方の領主に半々ずつ(ただし、状況によって異なる場合もある)の年貢・公事を納めている状態を示している。また、年貢・公事を片方の勢力に納めながら、それとは別個に貢納物を他方の勢力に納めて、私的に和睦を結んだ状態になっている状態も含む。これは付近の勢力地図がたびたび変動する中で双方の勢力から年貢・公事を二重に賦課されたり、攻撃・略奪の対象にされることを防ぐ意図があった。・・・
 半手が行われた地域は一種の「中立地帯」となるため、ここを拠点として直接取引が困難になっていた両勢力間の取引に介在する商人が登場したり、ここを拠点として相手側陣営の情報を得ようとする諜報活動も行われた。そのため、領主の中には半手地域の住民に対して領内の特定の地域(例えば、城内などの重要な区画)への立入を規制するなどの安全上の措置を取る者もいた。
 半手は村が敵対する大名権力双方に両属することで戦争を停止し、平和形成を促すことから村の視座から戦国期の戦争と平和を読み解く概念として注目され、峰岸純夫は半手の基本的な在り方を検討し、「下からの平和創出」と位置づけた。また、稲葉継陽は半手が村からの要請と敵対する大名権力間の交渉により成立し、双方の大名から二重に年貢を収奪される「二重成」回避を図るものであることを指摘し、さらに豊臣政権による惣無事令は半手による両属地域の解消を課題としていたことを論じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%89%8B#:~:text=%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%9C%9F%E7%89%B9%E6%9C%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E8%B1%A1,%E8%BF%91%E3%81%84%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82

 戦国時代の戦争の特徴としては、一 <このような、>地頭領主による地域の境界紛争<のほか>、二 外交を有利に展開し領土を拡張することを目的とした大名間の合戦、三 新しい「主取り」<(注9)>のための一揆や百姓の侍化に傾いた参戦などが考えられる。とくに三は、身分政策にかかわる社会の潮流として重要である。・・・

 (注9)しゅうどり。「新たに主人に仕えること。武士などが主君に召し抱えられること」
https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%BB%E5%8F%96%E3%82%8A

 加賀や大和の侍・侍分・百姓は、寺院<・・具体的には、それぞれ、本願寺門主、興福寺門跡・・>を主取りしたのである。
 戦国大名の分国中における百姓の新侍化や新しい主取りは、徴兵の場合を除いて、停止命令が出されている。
 織田信長は、越前の一向一揆を掃討した翌・・・1576<年>、「国中土民百姓」の「新儀の主執(取)り」を停止している。
 地侍や百姓の自由な主取りを禁止することは、一揆などの軍事的な行動を抑止し、地頭領主への年貢や役負担を忌避する名目を与えないための政令だった。
 戦国大名は<二をやったわけだが、>・・・対外戦争だけが戦国大名の合戦ではなかった。
 戦国大名が分国の統治権を確立する過程で、ほとんどの大名家において粛清という家中の闘争を経験しなければならなかった。・・・
 <1541年>6月14日、<武田信虎(注10)の>嫡男晴信は重臣らと謀って、父信虎を女婿義元のもとへ追放した。

 (注10)1494~1574年。[娘の定恵院は今川義元の正室。]追放後も室町幕府相伴衆として活動し、信玄(1521~1573年)よりも後に亡くなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%99%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83 ([]内)
 「1538年・・・、定恵院は義元との間に長男今川氏真を生んだ。その後、娘の嶺松院・隆福院が生まれている。・・・1541年・・・6月、父信虎は娘夫婦と会うために駿河を訪問しているが、嫡男・晴信によって帰国を拒絶され、そのまま駿河に滞在することとなった。
 1550年・・・に死去した。享年32。・・・
 死後、甲駿同盟を維持するために、・・・1552年・・・11月に、娘・嶺松院が甥<で信玄の嫡男で後に廃嫡される>武田義信の許に嫁いだ。いとこ同士の結婚である。ついで弟・信玄の娘の黄梅院(定恵院の姪)が北条氏政に、<氏政の父の>北条氏康の娘の早川殿が氏真に嫁ぐことで、後の甲相駿三国同盟へと繋がっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E6%81%B5%E9%99%A2

 晴信21歳のときのことだ。・・・
 分国の武士や百姓にはすこぶる評判のよい政変<だった。>・・・
 甲斐国では、・・・1538<年>正月頃から、台風や厳冬により不作で、疫病がはやり死者が出ていた。
 翌<1539>年12月にも大洪水が起こり、<1540>年には大飢饉となった。
 それにもかかわらず信虎は信濃へ進軍、武田家の有力家臣である寄親(よりおや)に軍勢催促された寄子(よりこ)たち、土豪・地侍らの下級家臣は、陣立てに迷惑したと伝えられる。
 翌<1541>年には百年に一度の大飢饉となった。
 そこで信虎追放クーデターが起ったのである。・・・
 これは江戸時代でいう「主君押込(おしこめ)」(家臣が主君である大名を拘禁すること)に相当する
 重臣たちの宿老合議によって、悪政の暴君を更迭した状態に近い。<(注11)>・・・」(21~22、24~25)

 (注11)「信虎の悪行を具体的に記した一次史料は殆ど無く、在地の信虎の伝承や記録には信虎を悪くいう内容はない、とする意見もある。信虎の悪行は『甲陽軍鑑』に萌芽が見られ、『甲陽軍鑑末書』や『竜虎豹三品』の「竜韜品」、『武田三代軍記』といった甲州流軍学のテキストの中で次第に作り上げられていった。信虎に悪役のイメージを付加したのは、信虎追放を正当化するために武田氏や軍学者たちが印象操作を行ったとも考えられている。」(上掲)

⇒「注11」に照らせば、鍛代の信虎評は断定的に過ぎるように思います。(太田)

(続く)