太田述正コラム#11874(2021.3.3)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その5)>(2021.5.26公開)

 「信玄は父の追放だけではなく、のちに嫡男義信<(注12)>をも粛清している。

 (注12)1538~1567年。「<父信玄の正室の>三条の方<の子。>・・・傅<役>は飯富虎昌<。>・・・正室<は従姉妹の>嶺松院(今川義元の娘)・・・1553年・・・12月29日には、武田氏歴代の中で初めて室町幕府将軍の足利義藤(後の義輝)より足利将軍家および清和源氏の通字である「義」の偏諱を受けて義信と名乗<る。>・・・1558年・・・に晴信が信濃守護に補任された際には「准三管領」としての待遇を受けて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%BE%A9%E4%BF%A1

 信玄47歳、・・・1567<年>10月19日、義信は甲府の東光寺<(注13)>で切腹した。

 (注13)「臨済宗妙心寺派に帰依していた・・・信玄・・・による庇護を受けて再興され<た。>・・・1543年・・・7月の武田氏のよる諏訪侵攻で諏訪領主・諏訪頼重は甲府へ連行されて・・・当寺に幽閉され・・・自害している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%85%89%E5%AF%BA_(%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%B8%82)

 翌11月には義信の妻(今川氏真の妹)が駿府に送還されている。
 ことの発端は、・・・<1565>年10月における義信の謀叛未遂事件だった。
 義信は譜代の飯富虎昌(おぶとらまさ)・・・らと信玄殺害を謀ったようだ。
 この陰謀は先に信玄に注進されて、虎昌は切腹、義信の側近たちは他国追放の処罰、義信自身は東光寺に幽閉された。<(注14)>

 (注14)「義信事件における・・・武田御一門衆の穴山氏・・・の立場は不明であるが、<1556>年12月5日に当主信君の弟にあたる穴山彦八郎(信嘉、信邦)が<日蓮宗の>身延山久遠寺塔頭において自害しており、義信事件に際して穴山氏では当主信君が信玄派に属し、弟の彦八郎が義信派に属した内訌が生じていた可能性が考えられている。・・・
 <ちなみに、>信虎によ<り>甲斐国内が統一されると、信友は武田宗家に従属する。信友は信虎の娘・南松院殿を正室に迎えて武田宗家との関係を強化し、居館を駿河に近い南部(南部町南部)から下山(身延町下山)に移転し、下山館を中心とした城下町を整備し<ている>。・・・
 武田家の庶家の多くが他姓を称しているのに対し、穴山氏は武田姓を称することが許されている。・・・
 1582年・・・3月には織田信長・徳川家康連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)を前に、穴山信君は家康を通じて織田方へ内通し、甲斐河内領・江尻領安堵と武田宗家相続の確約を得た。・・・。信長が甲斐において戦後処理を終えて帰国すると、信君も家康とともに返礼に上方を訪れていたが、6月2日には信長が家臣・明智光秀によって討たれる本能寺の変が発生する。信君は家康とともに京都・奈良を見物していたが、信長の横死を知ると上方を脱出し、家康と別れた信君は宇治田原において一揆の襲撃を受けて落命した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%BE%A9%E4%BF%A1

⇒穴山氏の前に河内領主だったのは、南部氏(注15)であり、「1392年・・・には南北朝合一が行われ、河内地方を領していた南朝方の南部氏が陸奥国に移住し、河内領は穴山氏に与えられたという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%B1%B1%E6%B0%8F
のですが、当然のことながら、当時、久遠寺は既に河内領内に存在したわけであり、その南部氏の「支藩」たる八戸南部氏に婿入りした(島津重豪の子の)信順と日蓮正宗との因縁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E9%A0%86
を改めて思い起こさせます。

 (注15)「南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流で河内源氏、源義光の孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F

 まだ思い付きの域を出ませんが、穴山氏の勝頼との武田本家争いには、宗教的な背景もあったのではないか、信長とは、日蓮宗シンパとして肝胆相照らすものがあったのではないか、という気がしてなりません。(太田)

 信玄と義信は、戦略上の対立があったという。
 今川氏真との攻守同盟を重視する義信と、信長養女を高遠城主勝頼に嫁がせ、北進か西進へと侵攻の転換をはかった信玄との対立に起因しているようだ。
 <1567>年8月、信玄はすべての家臣から起請文を差し出させ、御屋形への忠誠を誓わせた・・・。
 その直後、義信に切腹を命じたのである。」

(続く)