太田述正コラム#11878(2021.3.5)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その7)>(2021.5.28公開)
「1536<年>3月17日、・・・<今川家>当主の今川氏輝(うじてる)が急逝した。
享年24。
不可思議なことに、同日、弟の彦五郎も亡くなっている。
氏輝には子がなかったので、・・・僧侶となっていた・・・兄弟<である、>・・・のちの義元<である>・・・栴岳承芳(せんがくしょうほう)<と>・・・玄広恵探(げんこうえたん)・・・<との間で、>家督<をめぐる>・・・内訌が勃発した。・・・花倉の乱<(注19)>といわれる。・・・」(32)
(注19)「「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、あるいは恵探が華蔵山遍照光寺の住持であったことから「華蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。・・・
足利氏の氏族である今川家では、・・・1476年・・・に遠江で今川義忠が戦死した後にも、家督を巡り一門衆と有力被官との争いで家中が分裂する騒動が起こっており、これは幕府申次衆の伊勢盛時(北条早雲)の仲介で・・・1487年・・・に今川氏親への家督相続が行われた。
氏親は、守護代となった盛時に支えられ当主の宗主権強化に努める。分国法である『今川仮名目録』を制定して家中を統率。自身の死後の内訌を防止するため、嫡子龍王丸(今川氏輝)への家督相続を確実にし、・・・1523年・・・には京都の建仁寺から太原雪斎を招き、五男の芳菊丸(正室寿桂尼の第三子。のちの栴岳承芳、義元)を養育させ、・・・1525年・・・に得度させて富士郡瀬古の善得寺(静岡県富士市)に入らせる。氏親は翌・・・1526年・・・に死去し、嫡子氏輝が今川家当主となる。
氏輝の時代には、対立していた甲斐の武田氏と和睦し、一門衆や有力被官の合議制を確立させ、分国統治を整備する。だが、三河で松平氏が活動を強めると、守勢であった氏輝は三河を放棄し、甲斐侵攻を計画。太原雪斎とともに京で修行していた弟の栴岳承芳(義元)を呼び寄せる。
・・・1536年4月7日・・・、当主の氏輝と、上位継承者である弟の彦五郎が急死する。家中での影響力も強かった氏親正室の寿桂尼や、太原雪斎、重臣たちは栴岳承芳(義元)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、義元と名乗らせる。さらに甲斐の武田家と和睦を成立させる。家督を継がせようとするが、今川家の有力被官で、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島氏が反対。福島氏は氏親の側室が福島助春の娘で外戚にあたり、子の玄広恵探を擁立して対抗した。
5月・・・25日・・・、恵探派は久能城で挙兵し、駿河府中の今川館を襲撃する。今川館の守りが堅く襲撃が失敗すると、恵探派は方ノ上城(焼津市)、花倉城(葉梨城、藤枝市)を拠点として抵抗、遠江などで同調するものも現れた。
義元は相模の後北条氏の支援も得て、6月10日・・・に岡部親綱が方ノ上城を攻撃、落城させる。次いで恵探の篭る花倉城をいっせいに攻め立てた。恵探は支えきれずに逃亡、瀬戸谷の普門寺で自刃。遠江での戦闘も収束すると、義元は自身の家督相続を宣言し、宗主権強化に努める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%80%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
太原雪斎(たいげんせっさい。1496~1555年)は、「臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。・・・父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E9%9B%AA%E6%96%8E
寿桂尼(じゅけいに。?~1568年)は、「藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、・・・子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)など。・・・氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し、「尼御台」と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%A1%82%E5%B0%BC
義元の実母が寿桂尼ではないとする新説が、唱えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83
⇒今川家が領地の近傍に日蓮宗の身延山久遠寺(くおんじ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%AF%BA
や領地内に日蓮正宗(当時は富士門流)の多宝富士大日蓮華山大石寺(たいせきじ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%AF%BA
を持ちながら、義元の父の氏親は臨済宗のほか曹洞宗にも関心を示しただけ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E8%A6%AA
で、今川義元も、いくらかつて臨済宗の僧であったとはいえ臨済宗一本槍であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83 前掲
それぞれの事績に、日蓮宗がらみのものは一切見当たらないのは奇異な印象を持ちます。
義元の場合は、「駿府に流寓していた冷泉為和に直接・・・和歌<の>・・・指導を受けていた<が、>・・・今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、同工異曲の似たような歌が頻出し、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多い<ところ、>義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っている。」(上掲)という事績からも、義元は、到底教養人とは言えず、(広義の)日蓮宗はもとより、父が関心を持った曹洞宗、や、三河で猖獗を極めた浄土真宗、の教義に対し、関心すら抱かなかったのではないでしょうか。(太田)
(続く)