太田述正コラム#11904(2021.3.18)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その20)>(2021.6.10公開)

 「<もとより、>日本や世の中、世間一般のことを「天下」といった例は少なくない。・・・
 さらに、朝廷の政務のことを「天下」と称した。・・・
 天皇・朝廷<そのものを指すこともあった。>・・・
 京都における将軍政治も同じく、「天下」といわれた。・・・
 幕府・将軍家は「天下再興」という言葉をよく用いた。
 京都における将軍政治の復興を意味した。
 戦国期では、将軍足利義稙<(注69)>を奉じた細川高国<(注70)>・大内義興<(注71)>、足利義晴・義輝と六角定頼<(注72)>、足利義昭と信長、これらの政権は将軍政治を復活させた「天下再興」政権なのである。

 (注69)よしたね(1466~1523年)。「父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。・・・初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の・・・1498年・・・に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の・・・1513年・・・には義稙・・・と改名している。
 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は・・・1490年・・・から・・・1495年・・・まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は・・・1508年・・・から・・・152<1>年・・・まで在職した。なお、鎌倉・室町・江戸の3幕府の将軍の中で唯一、将軍職を再任されている人物でもある。・・・
 管領・細川政元と対立、明応2年(1493年)将軍職を廃され・・・たが(明応の政変)、・・・周防国の大内義興の支援を得て、・・・1508年・・・に京都を占領、将軍職に復帰した。しかし、大内義興が周防国に帰国すると管領・細川高国(政元の養子)と対立、・・・1521年・・・に・・・京都を出奔して将軍職を奪われ、・・・1523年・・・逃亡先の阿波国で死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99
 (注70)1484~1531年。「細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。・・・養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し疲弊した。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%AB%98%E5%9B%BD
 (注71)1477~1529年。「大内氏の第15代当主。・・・子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E8%88%88
 (注72)さだより(1495~1552年)。「1499年・・・剃髪、・・・1504年・・・に・・・正式に得度<したが>、・・・兄・氏綱が・・・1518年・・・に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなった。・・・
 1520年・・・、細川高国に合力し細川澄元配下の武将である三好之長を破り(等持院の戦い)、両細川の乱を終結に導いた。後に義稙が高国と対立して出奔すると、12代将軍・足利義晴の擁立に高国と共に貢献し、・・・1546年・・・に義晴からその功績により管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。また、一方で足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し、三好長慶とも戦っている(江口の戦い)。さらに北近江の領主・浅井久政が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、浅井家に侵攻して事実上従属下に置くなど、六角家の全盛期を築き上げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%AE%9A%E9%A0%BC

 義昭や彼の側近は「御当家再興此の時に候」と謙信に文書を送った。
 ・・・1573<年>、義昭と一時的に講和した信長は、いみじくも「天下再興本望」との書状を細川藤孝にしたためた。<(注73)>

 (注73)「これまで「日本を武力で統一する意思表示」と思われてきた織田信長の印判《天下布武》 。最近では「五畿内(天下)に幕府を再興する(布武)という表明」ではないかとされ、定説となりつつある。・・・
 信長<が>この《天下布武》の印判を、上杉輝虎や小早川隆景など、ほかの群雄への書状にも使<うことが可能であったことの説明がこの新定説ならできることになる。>」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61091
 「<1566年、信長は、>美濃の稲葉山城を攻略し、斉藤氏を追放した後、信長はここを岐阜と改名した。古代<支那>で岐山(きざん)の麓で興った周が、殷を滅ぼして王朝を築いた故事にならったと言われる。阜は丘のことだから、岐阜と岐山は同じ意味になる。周の武王は、殷の紂王を討って周王朝を築いた。紂王は、<支那>史上指折りの悪王とされている。信長が武王なら、悪王とは誰のことか。信長は、密かに足利幕府と思っていたのではないか。・・・
 さらに信長は、このころから書状に「天下布武」という印を使い始めている。天下布武・・・天下に武を敷く。武で天下を治めると解釈してもいいだろう。最近、この天下布武の意味について別の解釈が出ている。古代<支那>の古典である春秋左氏伝の一節を引用し、周の武王が持っていた七徳の武を目指していたのだと言う。それによれば、武とは戈(ほこ・・武器の一種)を止めると言うことで、単に武力と言うことではなく、一、暴力を禁ずる、二、戦い収める、三、大国を保つ、四、功を定める、五、民を安んじる、六、人身を和ませる、七、財物を豊かにする ことだと言う。仮に周の武王がこの七徳を持っていたとしても、信長がそれを目指していたとは、私には到底信じられない。・・・
 岐阜と言い、天下布武と言い、これこそ天下統一への明快な宣言であろう。」
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nob/nobu2.htm

⇒私は、「注73」の最後の、匿名氏(1953年~)
http://www9.wind.ne.jp/fujin/plofil.htm
の見解に同意です。
 問題は、信長がそう決意する契機となったものは一体何だったのか、そして、信長にとって、繰り返しますが、天下は、日本なのか、それを超えるものなのか、です。(太田)

 将軍家が存在している以上、戦国大名の上洛の大義は、「天下再興」が第一だったのである。
 十代将軍義稙を奉じ、2万の大軍を率いて上洛を果たした大内義興は、戦国大名として天下再興の先駆けをしたと見なしてよいだろう。
 天下再興は、もちろん全国統一といったことを目指すものではなかった。・・・」(139~141)

(続く)