太田述正コラム#1329(2006.7.1)
<若かりし頃の評論活動(その1)>
(昨日、実に117人目の有料講読申し込みがありました。会費未納でご連絡のない方は、22、71、94、108の計4名にまで減りました。引き続きご連絡をお待ちしています。)
1 始めに
世の中には、異能の人が本当に存在します。
東大時代に一緒だったA君は、あらゆることを努力なしに印画紙のように鮮明に記憶する、という能力の持ち主でした。
彼にかかると、「君に初めて会ったのは駒場の学食でだった。その時君は○○を着ていてXXを食べていた」から始まって、現在に至るまで、私自身が忘れてしまったことを事細かに覚えていて私が聞くと教えてくれるのです。
一度大学の授業を休んで彼のノートを借りたことがあるのですが、まるで清書をしたようなきれいな字で、見事に講義の要点が記されており、舌を巻きました。もっとも、しばらく経ってから、彼は一体何のためにノートをとっているのか不思議に思いました。講義で聴いたことはすべてそのまま頭に入っているはずだからです。
その彼が法学部の成績が全優であったのは不思議ではありません。昔で言う銀時計組、要するに首席卒業です。
当然、大学に残るように肩をたたかれたにもかかわらず、彼は学者の道を選びませんでした。
スタンフォード時代に一緒だったB君は、教えることの達人でした。
私は、ビジネススクールのほとんどの科目をそれまで勉強したことがなかったので授業について行くだけで大変で、試験間近になると、同期生の日本人(私を入れて9人へと一挙に増えた年でした)の間を回って分からない所を教えてもらうのを常としていました。それでも分からないと、MBAコースならぬPh.Dコースに在籍していたB君(学部は違うがたまたま東大の同期生)の所に押しかけて、教えを請うたものです。
彼の教え方は名人の域に達しており、いつでも分かった気になって試験に臨むことができ、その都度何とかことなきをえることができました。もっとも、試験が終わると、教わったことはすぐにほとんど忘れてしまいましたが・・。
彼が、予備校の教師をすれば、日本一のカリスマ教師になれる、と思ったものです。
もったいないことに(?!)、彼は現在東大の教授をしています。
どうしてこんな話をしたかと言うと、私の最初の評論活動時代に、もう一人の異能の人、Cさんが深く関わっているからです。
2 私の最初の評論活動時代
(1)Cさんとの出会い
コラム有料講読申込者を募るために、大昔(1981??84年)の私の公刊論考4篇のコピーを100人目と110人目の方に差し上げることにしたことが契機となって、公刊当時のことが走馬燈のように脳裏をよぎりました。
Cさん・・誰のことかは、皆さんがお調べになればすぐ分かりますが、一応伏せておきましょう・・とは、スタンフォードの政治学科で一緒だったのです。
どうして「さん」づけか?
私より何歳か年上だからです。
彼は、東大の理科系の修士号まで持っていながら、政治学者への転向を果たそうとしていました。
実のところ、ビジネススクールだけに在籍するはずだった私が政治学科にも在籍することにしたのは、彼の影響です。
彼は、自分の部屋に天皇陛下と皇后陛下の額に入った写真をかけているような一風変わった人物でした。
その彼とは、三日にあげず、議論をしたものです。彼は日本に帰国してから処女作を出版するのですが、この本の随所にスタンフォード時代に私と議論したことが反映されています。
彼との交友は、日本に帰国してからも続きました。Cさんは某国立大学の助教授になっていました。(現在は教授)
(2)日本型経済体制論上梓まで
ある日、私が日本型経済体制論(コラム#1325)についての草稿を彼に見せて説明したところ、彼は、経済の話については全くの門外漢であったにもかかわらず、これは面白いからちょっと預からせてくれと言うのです。
しばらく経つと、彼がこの草稿を全面的に書き直したものを私に示しました。
いやーびっくりしました。
私の使った無味乾燥な用語がことごとくキャッチコピー的なネーミングに変えられており、こむつかしかった内容も、誰にでも分かるような平易なものに書き改められていたからです。
私はCさんが、ゴーストライターとして、日本随一の能力を持った人物であることを、この時初めて「発見」したのでした。
(続く)
中川八洋さん?