太田述正コラム#11906(2021.3.19)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その21)>(2021.6.11公開)

 「天下とは主に京都のことであり、さらに天皇および将軍による中央政権のことを指していた。

⇒「「天下」の本来の意味には、支配地域の境界は無く、秀吉は日本統一後に明の征服を中核とした東アジアの統一を企画し、文禄元年(1592年)から朝鮮に出兵するが(文禄・慶長の役)、慶長3年(1598年)に死去したことで途中終了した。その後、関ヶ原の戦いを経て「天下」主催者の地位が江戸幕府の征夷大将軍職を世襲した徳川将軍家に継承されると、「天下」は日本列島に限る意味で用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E7%B5%B1%E4%B8%80
という認識が私には腑に落ちるのであって、かかる認識が正しいとすれば、いや、正しいと思うのですが、鍛代のように、「天下」の意味をミニマリスト的に限定するのは、いかがなものでしょうか。(太田)

 天下国家とは、中央の天下と地方の国家のことをいう。

⇒「天下国家」という四文字熟語の中における「天下」は、「7世紀には律令制の導入とともに中国的な天下概念が移入された。律令制の特徴である公民思想を伴って、「天下公民」という形で把握された。王朝国家の進展に伴って、平安時代には一時「天下」の概念は廃れるが、鎌倉幕府の成立が「天下の草創」と認識されたように、武家社会の進展に伴って「日本」とほぼ同義の意味で使用されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B
を踏まえれば、「天下国家」は「日本」を意味した、と、見るべきではないでしょうか。(太田)

 だから「天下一統」<(注74)>とは中央政権の安定、「天下静謐」<(注75)>とは朝廷を中心とした中央政権の平穏を意味する言葉だった。

 (注74)「意味は変わらないのですが、当時は「統一」という言葉は使っていなくて、「一統」といっていました。「天下統一」という言葉は、江戸時代以降の使用になります。」
https://www.surugadai.ac.jp/gakubu_in/hogaku/news/2016/21-1.html
 (注75)「谷口克広<は、>・・・信長<が>・・・みずからの印章に刻んだ「天下布武」という目標は、<1568>年に上洛した時点で達成されたのである。・・・それでは上洛後(「天下布武」後)の信長の政治理念は何なのか。わたしは “天下静謐” だと考えている。・・・<と主張しているところ、天下静謐の政治理念の下、その5年後だが、信長が行ったのが、1573>年4月4日<の>・・・上京焼き討ち<なる、>・・・焼失家屋6000~7000軒とも言われる・・・京都<の大規模な>・・・焼き討ち<だった。>」
https://castles.xsrv.jp/2020/09/20/blog-56/
 谷口克広(1943年~)は、横浜国大教育学部卒、中学校教諭、横浜市役所勤務等を経て、岐阜市信長資料集編集員会委員。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E5%85%8B%E5%BA%83

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[上京焼き打ち]

 「上京というのは京都市の中心の内ざっと今の二条城より北のエリアを指すが、信長は前々日からすでに洛外(東山の東、桂川の西、伏見の南、賀茂の北)に放火していた。その箇所数、実に128。洛外の寺社は「少々は焼け残った」というありさまだったらしい(『公卿補任』。『年代記抄説』には庶民の家ばかりが焼かれ、寺社は放火されなかった、とする)。
 信長は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景と結んで打倒・織田の姿勢を明らかにした将軍・足利義昭に降伏を促すため、まず洛外で示威行動したのだ。義昭本人を脅すというよりも、朝廷や寺社勢力にプレッシャーを与えて義昭を引きずりおろさせようという駆け引きだったかもしれない。
 ところが義昭は二条御所に籠もって反抗の姿勢を改めなかったため、この日の上京焼き討ちとなったのだ。御所のまわりこそ朝廷側が「堅く申し付け」たために放火されなかった(『御湯殿上日記』)が、それ以外は西陣から始まった織田軍の付け火によって二条から烏丸まで丸焼けとなり、夜になっても延焼は収まらなかった。数知れない町人や庶民が殺害され、公家の中納言・飛鳥井雅教の屋敷も類焼したという(『兼見卿記』)。
 この焼き討ちの二日後、信長は徳川家康に「このおかげで講和の動きが出て大体同意に至った」と自画自賛しているが、実際、二条御所を包囲された義昭はこの日に矛を収めている。彼がふたたび挙兵して追放されるのは三ヶ月後のことだ。」
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9159/
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⇒繰り返しますが、鍛代のように、「天下」の意味をミニマリスト的に限定してしまうと、江戸時代における「天下統一」の意味すら説明できなくなってしまいそうです。
 また、谷口、鍛代流の「天下静謐」観は、(信長以外の戦国大名等による使用があったか否かは詳らかにしませんが、)少なくとも信長の「天下静謐」に関する限り、舌を噛んでしまっています。(太田)

 これらを考え合わせると、やはり戦国大名には、独自の天下統一の構想はなかったものと判断せざるをえない。
 ましてや、日本列島の統一などといったことは、夢のまた夢だった。
 京都政権にしても<・・京都政権すら(?。太田)・・>、信長以前では、将軍や公方を奉じて、管領細川氏と連合して一時的に京都政権を創出した大内義興や六角定頼・義賢父子、また三好長慶らを除けば存在しない。
 したがって、全国統一政権を構想して、本拠の居城や城下町を放擲し、次々と居城を移しながら首都を目指すとか、地方に全国区の拠点を建設するといったようなことは考えもしなかっただろう。・・・」(142~143)

⇒豊臣秀吉を戦国大名と呼ぶのはすわりが悪過ぎますが、少なくとも、織田信長と徳川家康は戦国大名と呼んでも不自然ではないところ、信長自身は、清州→岐阜→安土、と「次々と居城を移し」ましたし、家康も、秀吉の命を受けて、駿府→江戸、に「居城を移」させられたけれど、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣/夏の陣の後にも、駿府に「居城」を戻そうとはしなかったのですから、鍛代の論理からすれば、この2人のどちらも、「日本列島の統一」を目指した可能性がある、ということになりそうですね。(太田)

(続く)