太田述正コラム#1330(2006.7.2)
<若かりし頃の評論活動(その2)>
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現在、有料購読者数は118名(コンタクトのないお三方を含む)、無料購読者数は1361名で、計1479名です。(もとより若干のダブリがあります。)半年後に有料購読者数と無料購読者数がそれぞれ更に増えていることを願っています。
有料講読申込者の中で希望された方等に拙著をお送りするのは、7月の第2週と申し上げてきましたが、正確に申し上げると、10日から15日の間を予定しているので、もうしばらくお待ち下さい。本代1,000円の振り込みがまだの方は、それまでにお済ませ下さい。また、送料は受取人払いですのであしからず。(記念品として拙著2冊をお送りする会員番号0085の方には、一両日中に発送します。)
6月30日、7月1日、2日にダウンロードした記事等はようやく読み終えましたが、まだ、それ以前の何日かの読み残し分があります。これらを全部読み終えるまで、慣らし運転を続けさせていただきます。
その後の有料講読申込者の声をご紹介しましょう。
<6月30日深更に申し込んだ方>
今週に入って初めて貴URLを拝見しました新参者です。
偶然が重なって貴殿のアドレスを知りました。
こういう世界に生きて、活動されてきたのかと、正直申し上げて吃驚しております。
貴説には生半可の理解にしか至っておりませんが、同郷(四日市市)、同じ団塊の世代の誼でもあり半年間、取り合えず有料購読者になりたくメールをさせて頂きます。
<7月2日に申し込んだ方>
太田様、
有料購読を希望いたします。
貴メルマガでいつも勉強させていただいております。貴メルマガにとくに感銘をうけたのは靖国問題のときです。外国の新聞やホームページが中国の嘘の受け売りで日本を非難していたところに、しっかりと日本の立場を主張されていました。「これからの日本にはこういう方が必要だ」と思いました。貴殿の活動を支持したいという思いで有料購読に踏み切りました。今後とも国際的に日本の立場を主張していっていただけることを期待しております。
一方、これまで残念に思っていたこともあります。貴ホームページではトピックの検索ができず、読みたいもバックナンバーを探すのが事実上無理なことです。有料購読に踏み切った理由の一つには、特典の全バックナンバーにもあります。これでテキストでの検索が可能になるので、以前のもメールにも目を通させていただこうと期待しております。
今後のご活躍を期待しております。
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そうこうしているうちに、筑摩書房のシリーズものの中の一冊である「産業社会と日本人」の中にこれが収録されることになったというではありませんか。
経済の話ですから、実名を出すことにしたのですが、防衛庁の人間がこんなものを書いた、と変に勘ぐられることを懼れ、肩書きは経済評論家にし、Cさん(肩書きはxx大学教授)との共同執筆ということになりました。
また、タイトルは「「日本型経済体制」論 ――「政府介入」と「自由競争」の新しいバランス」に決まりました。もちろん、Cさんがつけたものです。
「産業社会と日本人」は1980年6月に公刊されるのですが、私たちの論考は、日本経済新聞のやさしい経済学欄で公文俊平氏によって取り上げられる等、話題を呼びました。
しかも、外務省の外郭団体のフォーリンプレスセンターが英訳して小冊子にして世界にばらまいてくれ、同センター主宰の外国人記者向けブリーフィングまでやることになったのです(注1)。
(注1)この論考の概要、及びこのブリーフィングの概要については、コラム#40、42、43参照。
私は、キツネにつままれたような思いでした。
ビジネススクールこそ出ているとはいうものの、経済についての生きた知識経験がない私の書いた論考、しかも、典拠もつけていないような論考が、学者や専門家の執筆分と肩を並べて一冊の本の中に収録され、しかも、その中で最も話題を呼んだのですから・・。
日本の社会科学の世界は何と底の浅いことかと慄然とした、というのが正直なところでした。
いずれにせよ、分かってきたのは、当時まだ30歳台半ばであったCさんは、ゴーストライターとして日本随一の能力を持っているだけでなく、筑摩書房(出版社そのもの、或いはこのシリーズの監修者ないし有力執筆者)や外務省に強力なコネがあり、売り込みにも抜群の才能を有する人物だということでした。
つまり、Cさんは、一般向け論考に係る(プロダクトデザイン・パッケージング・販売戦略等の)総合的なマーケティングに関する異能の持ち主だ、ということが分かってきたのです。
(3)防衛問題で「デビュー」へ
しかし、自分の意識の中でこそ防衛問題と決して無縁ではなかった(コラム#40)とはいえ、専門外の分野で評判になっても、私としては余りうれしくありませんでした。
当時私は、戦後日本が墨守してきた吉田ドクトリン・・外交・安全保障を米国に丸投げして経済に専念するという国家戦略・・による日本の精神的荒廃に、防衛庁に奉職する人間としていたたまれない思いが次第に抑えきれなくなってきていました。
そこでまず、大平政権が推進していた総合安全保障政策批判を書いて世に問うことにしたのです。
草稿ができあがると、さっそくCさんにこの草稿を見せました。
(続く)