太田述正コラム#11914(2021.3.23)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その25)>(2021.6.15公開)

 「1568<年>頃と推定される、北条氏政の書状は面白い。
 武蔵岩付城の在番衆にたいして、その辛労をねぎらって蜜柑や酒樽を贈っている。
 その際、今後も「武辺の儀」に励むべし、と発破をかけた。
 国主氏政への軍事的な奉公が、「武辺」だった。
 武辺ないしは武篇<(注82)>のもともとの意味は、武勇を奮うことだが、戦国大名や天下人は、主従関係と軍役奉公を規定する特別な言葉として重視していたのである。

 (注82)「戦 (いくさ) で勇敢に戦うこと。また、その者。転じて、武道に関係する事柄。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%AD%A6%E8%BE%BA/
 「たしなみの武辺は、生まれながらの武辺に勝れり・・・これは、・・・織田信長の言葉です。
 意味は、「努力して身に付けた能力は、生まれながらにもっている能力よりも優れている。」ということです(この場合の「たしなみ」は「普段からの心がけ」、「武辺」とは「武道や武術に関する事柄」のこと)。」
https://tm2.tcn.ed.jp/kassemba-el/muha6t3gq-37/?action=multidatabase_action_main_filedownload&download_flag=1&upload_id=1562&metadata_id=4

 さて・・・1575<年>8月、越前の一向一揆を殲滅した信長は、柴田勝家に北庄(きたのしょう)城を預け越前一国を任せた。
 不破光治<(注83)>・佐々成政<(注84)>・前田利家<(注85)>の三人に今立(いまだて)・南条(なんじょう)両郡を与え、柴田の目付として小丸山(こまるやま)城に入れ置いた。<(注86)>」(176)

 (注83)?~?年。「早くから美濃国の戦国大名・斎藤氏に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人と共に西美濃四人衆といわれることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたともいわれているが、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。・・・<但し、>完全に柴田勝家の指揮下に固定されたわけではな<い。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%85%89%E6%B2%BB
 「子孫は加賀藩士として続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E7%9B%B4%E5%85%89 
 (注84)1536?~1588年。「佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪で・・・1550年・・・、織田信長に仕える・・・。・・・1587年・・・の九州征伐で功をあげたことを契機に、その後の九州国分では肥後一国を与えられた。秀吉は早急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に検地を行おうとするがそれに反発する隈部親永を中心とする国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)<ことから、>切腹を命じ<られ>た。・・・
 傍流(実姉)の子孫として、徳川光圀に仕えた佐々宗淳、元内閣安全保障室室長の佐々淳行などがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF
 (注85)1539~1599年。「尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)・・・において、その地を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれる。・・・はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、・・・豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
 (注86)1573年・・・8月、越前国を攻めた織田信長は朝倉義景を滅ぼし、信長に降伏した前波吉継を一乗谷に置いて越前国を治めさせ、同じく降伏した富田長繁を府中の政務に当たらせた。しかし、程なく吉継と長繁は敵対し、・・・1574年・・・1月に長繁が吉継を滅ぼして越前国を支配下に置いた。だが、この過程で長繁が扇動した一向一揆との対立が深まり、長繁も討ち死にして、越前国は加賀国同様「百姓の持ちたる国」と化した(越前一向一揆)。
 ・・・1575年・・・8月、信長は大軍をもって越前国に侵攻して一揆勢を殲滅し、再び支配下に収め柴田勝家に同国の八郡を与えて北ノ庄城に置いた。このとき、不破光治・佐々成政・前田利家が府中付近の二郡を与えられ、勝家の目付に任命された。これ以降、越前府中に在任していた間の3人を、一般に「府中三人衆」と呼ぶ。
 ただし、・・・谷口克広は不破氏の場合は親子での三人衆参加と見ている。
 三人衆は、不破光治が龍門寺城、佐々成政が小丸城、前田利家が府中城(越府城)を居城としたが、当初はそれぞれの支配領域は明確ではなく、総計約10万石の知行を相給されていたと見られている。越前二郡での活動や発給文書などを見ても、ほとんどが3人共同で行われている。しかし、・・・1576年・・・5月から7月の間に所領割りが行われ、三人衆はそれぞれの所領と与力を持つようになったと思われ、3人連署の文書も見られなくなる。それぞれの所領は、利家が丹生郡大井村、今立郡真柄村、南条郡杣山・宅良谷・河野浦など、成政が丹生郡織田平等村、今立郡大滝村・岩本村、南条郡湯尾などと推定され、光治については明らかでない。
 三人衆の当初の任務は、信長が発した「越前国掟書」にも明記されているが、越前国の大半を任された柴田勝家の目付であった。しかし、その後は加賀一向一揆や上杉謙信との戦いで、勝家の与力としての性格が強まっていった。とはいえ、勝家の指揮下に固定されたわけではなく、・・・1578年・・・に荒木村重が反逆した際、その居城の有岡城攻め(有岡城の戦い)に、3人そろって勝家から切り離されて駆り出されるなどしている。
 佐々成政は・・・1580年・・・、神保長住を助成して越中国を平定し、翌年には越中半国を与えられ、さらにその翌年には長住が失脚して越中を一国支配することとなった。前田利家も加賀国や能登国の平定戦に従事した後、・・・1581年・・・に能登一国支配を任された(ただし、この時信長によって召し上げられた府中の所領は改めて利家嫡男の前田利長に与えられ、賤ヶ岳の戦い後に加賀国松任城に移されるまで支配している)。不破光治は・・・1580年・・・に死去した(異説あり)。これらにより、府中三人衆としての活動は実質的に終了した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E4%B8%89%E4%BA%BA%E8%A1%86

⇒このくだりに登場する、柴田勝家、佐々成政、前田利家、の3人は尾張出身、不破光治は尾張の信長が最初に併合した他国である美濃出身ですが、そういう巡りあわせから、それぞれが、等身大以上の数奇な人生を歩むことになったところ、偶然がなんと人生を左右することか、と改めて感慨を覚えます。(太田)

(続く)