太田述正コラム#11916(2021.3.24)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その26)>(2021.6.16公開)

 「9月、越前国掟九ヵ条が右の府中三人衆によって発令された。・・・
 もっとも強調されたのが「武篇」だった。
 第六条に、大国を知行する覚悟が記され、第一に武篇を大切にして、武具・兵粮の準備を怠ってはならない点が厳しく訓示された。
 武篇とは、『信長公記』の冒頭に織田家は「代々武篇の家なり」と見える通り、信長の武威の正当性を主張する論理に用いられた。・・・
 1580<年>の佐久間信盛<(注87)>・信栄<(注88)>父子への・・・折檻状<の>・・・折檻条目から、さらに信長の<考え方>を見定めておきたい。・・・

 (注87)1528?~1582年。「織田信秀に仕えた。後に幼少の織田信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信時を守山城に置く際に城主だった信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせ、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)と謳われた。
 信長に従って各地を転戦し、織田家の主だった合戦に参戦した。・・・
 1576年・・・5月・・・石山本願寺攻略戦の司令官である塙直政が戦死したことを受け、後任の対本願寺司令官(のちに畿内方面軍に改編)に就任。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であったが、信盛は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着した。・・・
 1580年・・・3月1日、朝廷より本願寺へ派遣された講和の勅使(近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保)の目付として松井友閑と共に同行を命じられる。8月2日、教如の本願寺退去を検視する勅使に友閑と共に再び同行した。こうして本願寺との10年続いた戦に終止符が打たれた。・・・
 同月25日、信長から・・・折檻状を突きつけられ、信盛は畿内方面軍軍団長と筆頭家老の地位を捨て織田家を離れた。・・・
 信盛退任後の畿内方面軍軍団長に就任することになったのは明智光秀であり、旧佐久間軍団は<1582年6月の>本能寺の変の実質的実行部隊となった。明智軍記には佐久間らへの情け容赦ない処分を引き合いに出して、明日はわが身と家中が反乱に傾いたという記述もあり、これが事実であれば動機面での影響もあったことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B
 「佐久間氏<は、>・・・桓武平氏、三浦氏の流れをくむ日本の氏族。・・・三浦義明の三男である義春(よしはる)の四男・家村(いえむら)が安房国平群郡狭隈郷(現在の千葉県安房郡鋸南町下佐久間・上佐久間)を領したことに始まる。家村の養子とされる朝盛(和田義盛の孫)は鎌倉幕府に仕えていたが、・・・1213年・・・の和田合戦に敗れ、越後国奥山荘(現在の新潟県胎内市)に逃れた。その子家盛が承久の乱の功績により上総国夷隅郡(現在の千葉県勝浦市、御宿町)と尾張国愛知郡御器所(ごきそ、現在の愛知県名古屋市昭和区御器所)を恩賞として賜り、そこに子孫が定住した。
 盛通(与六)は家村の十世(あるいは十三代)の孫と伝わっており、・・・盛通の孫に当たる盛重(大学允、盛経の子)と信盛(信晴の子)は織田信長の重臣として仕えたが、盛重は桶狭間の戦いで戦死<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F
 (注88)のぶひで(1556~1632年)。「譴責状では「甚九郎覚悟の条々 書き並べ候えば 筆にも墨にも述べがたき事(信栄の罪状を書き並べればきりがない)」と酷評されているが、茶器の収集や茶会の出席などに精を出し、茶の湯三昧の日々を送っていた事は事実らしい。・・・
 父の死後、・・・1582年・・・1月に<信長によって>赦免されて信長の嫡男・信忠に仕え、本能寺の変後は信忠の弟・信雄に仕えた。小牧・長久手の戦いでは大野城を築いて滝川一益と戦ったが、守備していた蟹江城を留守中に一益に落とされるという失態を演じたのが事実上最後の従軍で(蟹江城合戦)・・・信雄が改易されると茶人として豊臣秀吉に召抱えられ、大坂の陣後は徳川秀忠に御咄衆として武蔵国児玉郡、横見郡に3,000石を与えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E6%A0%84

 義昭を追放したときのような「外聞」の主張は消えていた。
 信長の天下が立ち現れ、それにともなって「武篇」や「武篇道」が登場した。
 信長が説いた武篇道とは、すわち主従の道理に忠誠を尽くし、主君である信長の武威を昂揚させることなのである。・・・」(176~179)

⇒部下が戦果を挙げなければ、(この場合は佐久間の父子とも、或いは父または子を、)更迭すべきなのにそれをせず、自ら調略で目的を達した後にその部下に恥辱を与えて追放したのは信長が悪い、と言うべきでしょう。
 譜代の佐久間父子の追放が明智光秀の心理にいかなる影響を及ぼしたのかは分かりませんが、外様の光秀を完全に信用して、自分を、いわば生殺与奪する「権利」があるポジションを与え、まんまと寝首を掻かれてしまった信長の「晩年」の耄碌の度合いは、後の秀吉のそれを上回っていたのではないでしょうか。(太田)

(続く)