太田述正コラム#11922(2021.3.27)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その29)>(2021.6.19公開)

 「鎌倉幕府が制定した初の武家法『御成敗式目』第一条は、神社を修理し祭祀に専念することを地頭御家人に命じた。
 その趣旨は、神は人の崇敬によって神威を増し、人は神の徳によって運を増すことができるとの信念に基づいていた。
 第二条は、神社と同様、寺院の堂塔を修造し仏事を勤行することとある。
 この法令は、武家が寺社を庇護する役割を負ったことを宣言するものだった。・・・
 伊達稙宗が制定した『塵芥集』<(注97)>は、右の条文をそのまま踏襲している。・・・

 (注97)「条文はおよそ171条に及び、分国法中最大の規模。・・・
 実行されていたのは・・・1536・・・年から元亀年間(1536年 – 70年、約34年間)までで、以降は忘れ去られ、・・・1680年・・・に家臣である村田親重が伊達綱村に献上するまで認知されていなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%B5%E8%8A%A5%E9%9B%86
 「あらゆる事柄が規定されているという意味からこの名がある。・・・
 形式としては鎌倉幕府の『御成敗式目』(貞永(じょうえい)式目)の影響を強く受けているが、その条文の内容によれば、伊達領国の実状に即して制定されたことが知られる。
 刑事関係規定が多くを占め、当事者主義的傾向が濃厚なことも特色とされる。私的復讐(ふくしゅう)、主人の制裁権を相当程度まで許容するなど、当時の伊達領国における地頭(じとう)領主権の相対的な強さをうかがわせ、また農民に関する条項には、地頭領主の側にたって農民を抑えようとする伊達氏の姿勢が示されている。
 この法典の公布を契機に、伊達氏は領国内の地頭領主層の裁判権・刑罰権を大幅に吸収集中して、戦国大名としての権力の樹立に成功したとみられる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A1%B5%E8%8A%A5%E9%9B%86-81363

⇒清水克行が「現在に分国法が伝わっている10家ほどは、みな滅びています。一方、織田、徳川、毛利、上杉、島津といった戦国時代を代表するスター大名たちには、分国法が伝わっていません。」
https://president.jp/articles/-/26233
と言っているけれど、『塵芥集』の伊達家は滅びていませんし、逆に織田は滅びていますから、異なことを承るものです。
 但し、分国法を作った本人が、伊達稙宗を含め、碌な目に遭っていない印象はぬぐえません。
 それがどうしてかは、今後の追究課題です。(太田)

 寺社造営については、鎌倉幕府がそうであったように、国主として武威を示すための、象徴的なランドマークの建造といった意味もあった。・・・
 寺社造営は、・・・戦国時代に特有の問題ではなく、江戸幕府や近世大名へと連続する寺社政策として一貫していた。
 領国の統治者は神仏を庇護し、領民の安寧を掌る権能を顕示しなければならなかったのである。・・・

⇒武家が寺社造営に熱心だった、もう少し突っ込んだ理由については、桓武天皇構想はともかくとして、聖徳太子コンセンサスの方は、少なくとも武士の間では広く共有されており、武士にとって(縄文性毀損の防止/回復目的での(神道と習合した)仏教への帰依、ひいては仏教の振興は必要不可欠なものであると考えられていたからだ、というのが私の仮説です。(太田)

 1555<年>、肥後南部の戦国大名相良晴広<(注98)>(はるひろ)が制定した『相良氏法度』二十一ヶ条には、「一向宗」の文言が三ヶ条に載せられている。

 (注98)1513~1555年。「相良氏の第17代当主。第16代当主相良義滋の養嗣子で、実父は上村頼興。・・・上村氏は相良氏初代当主相良長頼の四男の頼村を祖とする分家であった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%99%B4%E5%BA%83
 「相良氏<は、>・・・藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流<。>・・・1180年・・・、源頼朝が平氏追討の兵を挙げたが、ときの・・・遠江・・・相良荘司頼景は・・・1185年・・・に平氏が滅亡するまで、平氏方の武士として行動していた。・・・そして・・・1193年・・・、肥後国球磨郡多良木荘<に>・・・追放された<らしい。>・・・多良木は平家没官領であり、・・・それから四年後・・・、頼景は鎌倉に行き将軍頼朝に謁見、・・・御家人の列に加えられたのである。そして、所領として多良木荘を授けられた<。>・・・
 肥後南部を支配した戦国大名の氏族<となり、>江戸時代に入ると肥後人吉藩主家となり、明治維新まで存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F

 <1554>年に本願寺王国となった加賀国の霊山・白山の神が怒って噴火を起こした。
 だから、一向宗すなわち本願寺教団の坊主・門徒については分国内で禁止する。
 他国から来た祈祷師や占い師、また山伏や医師らを寄宿させたり、取り入れたりしてはいけない。
 なぜならみな一向宗のようなもので、一向宗の布教にかかわるからだ、と禁令を発した。
 同じ頃、島津忠良<(注99)>もキリシタンと法華宗にくわえて、一向宗を禁止した。

 (注99)1492~1568年。「島津氏は一門・分家・国人衆の自立化、さらには第12代当主・島津忠治、第13代当主・島津忠隆が早世し、第14代当主・島津勝久は若年のため、宗家は弱体化していた。
 そこで勝久は相州家の忠良を頼り、・・・1526年・・・11月、・・・忠良<の>嫡男・・・貴久<が>勝久の養子となって島津本宗家の家督の後継者となった。・・・1527年・・・4月、勝久は忠良の本領である伊作に隠居し、貴久は清水城に入って正式に家督を継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%B2%B4%E4%B9%85
 「だが、・・・貴久が島津宗家代々の当主が任官されてきた修理大夫に補任され、室町幕府および朝廷から守護として正式に認められるのは、・・・1552年・・・のことになる。・・・
 <さて、>忠良<は、>・・・『論語』に通じ、・・・また、禅を修め<て>・・・深く・・・曹洞宗・・・に帰依し、神道の奥儀を究め、儒神仏の三教を融合して新たに一流を開いた。これが日学と称されるものである。・・・
 忠良は・・・1550年・・・に本格的に隠居した。しかし実権は握り続けて、琉球を通じた対明貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成に励んだ。また万之瀬川に橋を掛け、麓と呼ばれる城下町を整備、養蚕などの産業を興し多くの仁政を敷いた。忠良はその後の島津氏発展の基礎を作り出し「島津家中興の祖」と言われ大きな影響力を与える事になった。
 また、忠良は人間としての履み行うべき道を教え諭した『いろは歌』の創作でも有名である。これは日学を広めるために、平易な歌謡によって、その精神をあらわそうとした試みで47首からなる。「いにしへの道を聞きても唱えへてもわが行いにせずばかひなし」に始まる歌であるが、この儒教的な心構えを基礎とした忠良の教育論は、孫の四兄弟・義久、義弘、歳久、家久にまで受け継がれることとなり、その後の薩摩独特の士風と文化の基盤を築いた。いろは歌は後の薩摩藩士の郷中教育の規範となり現代にも大きな影響を与えている。
 いずれも優秀な四人の孫を「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と高く評し期待していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E8%89%AF

 その理屈は、一向宗の徒党は、天下国家をみだす天魔の所行で、誅罰を加える政道は忠孝に適うものだといった儒教的な論理にあった。
 要するに、大名分国の安全を掲げ、土民蜂起による一向一揆の排除を、儒教道徳から強調しているのである。」(209~212)

(続く)