太田述正コラム#11926(2021.3.29)
<2021.3.27東京オフ会次第(続)/ 播田安弘『日本史サイエンス』を読む(その1)>(2021.6.21公開)
O:そう言えば、カネでは動かすことができない、タリバンやISISのような連中、を、中共が、どうやって、ウィグル人「弾圧」に対して文句を言わないように抑えこめてこれたのか、なんてのも、私として、解明すべき課題ではある。
D:中共当局がウィグル人に対して断種をやっているということも聞くが、中共当局は、一人っ子政策の時も、同じようなことを一般人に対して行っており、その折には、欧米からの批判はなかったので、ご都合主義だなと思う。
O:ところで、コロナ後は全て元に戻るのだろうか?
D:戻らない。
海外からどんどん日本人駐在員が引き揚げてきている。
現地に人を張り付けておかなくとも、工場があるような場合はともかくとして、基本的にテレワークで用が足りることが分かったからだ。
とはいえ、オンライン飲み会は、実際やってみたけれど、まるで面白くなかった。
O:ノンアルが伸びている理由の一つは、ビール等を飲んだ記憶が我々に刷り込まれていて、ノンアルでも「酔える」からだというが、オンライン飲み会や、オンラインオフ会が流行らないのは、TV世代は、動画画面を見ると、それが一方通行のものだ、という観念が刷り込まれているものだから、臨場感・・自分も参加している感・・が得られないからではなかろうか。
D:仮にそうだとすれば、テレワーク/オンライン会合が普及した環境で育った人ばかりになったら、臨場感も得られるようになるのかも。
O:Lineがやり玉に挙がっているが、フェイスブックやツイッター等は問題にされていないのはおかしいのでは?
D:Lineのように、政府や地方自治体が使用しているわけではないからだろう。
O:(しかし、エシュロンで、米国等の諸政府に好き放題にインターネットでのやり取り等を見られている話が何度出ても、日本国内で反発する声が起きたためしがない。)
C:今回の「講演」原稿に限らないのだが、太田さんは、自分の見解を記す場合、「⇒・・・(太田)」と表記する場合と何も表記しない場合とがあり、後者の場合、それが、地の文なのか、太田さんの見解なのか、分からないことがある。
また、「○説に同意。」とだけ書かれることが時々あるが、理由を若干でも付けてくれないと、なぜなんだろう、と途方に暮れてしまう。
O:耳の痛いご指摘であり、しっかり頭に入れておく。
今回の「講演」原稿を書いてみて、日本史ってこんなに面白かったのか、と思う。
その一方で、今まで自分は何と漫然と日本史を眺めてきたことか、と、反省しきりだ。
例えば、牛若丸がたまたま京で金売吉次
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A3%B2%E5%90%89%E6%AC%A1 >
に出会って、奥州までついて行った、という話を本当のことのように受け止めつつ聞き流し、他方で、平泉の金色堂を今まで三回も訪れつつ、当時の奥州の富、更にはその富んだ奥州に隠れていた牛若丸改め義経、とを結びつけて考える、ということをしてこなかった。
C:断片的知識を結びつける、ということを、何事によらず、我々は、怠りがちだ、ということだろう。
D:太田さんは、日本は脳死したと言うけれど、余り、そんな実感はない。
O:脳死って、日本政府が死んだ、ということであって、体は生きていることをお忘れなく。
御存じのように、人間の場合でも、脳死しても、生命維持装置に繋がれておれば、相当長期にわたって体は死なずに生き続ける。
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–播田安弘『日本史サイエンス』を読む(その1)–
1 始めに
播田安弘の経歴については、「1941年11月25日、徳島県生まれ。父は木造造船所、母方の実家は江戸時代から続く船大工棟梁「播磨屋」。・・・三井造船入社後・・・造船設計の仕事に携わる。東海大学等で非常勤講師をつとめる。」
http://www.radionikkei.jp/otona/date/20201008/
くらいしか分からず、どうして、出身大学(高校?)を明らかにしていないのか、不思議だ。
表記の本は、2020年9月発行。
2 蒙古軍はなぜ一夜で撤退したのか
「・・・日本の騎馬については近年、「ポニーのように小型だったので、甲冑武者を乗せての突撃などは不可能で、軍記物で伝えられるような騎馬軍団は存在しなかった」とする説をよく目にします。
しかし日本の伝統的な木曾馬<(注1)>の先祖は蒙古馬で、中型馬ですから、ポニーほど小さくはありませんでした。・・・
(注1)「本州の<馬の>在来種は木曽馬のみである。・・・起源ははっきりしていないが、元々は蒙古の(大陸系の)馬である。一説では紀元前1世紀の漢で改良された「蒙古草原馬」が2~3世紀、朝鮮半島経由(経由であって起源では無い)で渡来したという。この馬が木曽地域という山岳地帯で飼育された影響で、木曽馬となったとされる。・・・中型馬であり、・・・性格はおとなしいと言われているが、気性の激しい馬も多い。山間部で飼育されていた為、足腰が強く、頑強である。・・・蹄が堅い。農耕に使役する程度なら蹄鉄を打たなくてもよい。・・・草のみでも飼育可能。・・・平安時代~江戸時代:武士の馬、農耕馬、荷馬として重宝される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E9%A6%AC
(続く)