太田述正コラム#11930(2021.3.31)
<播田安弘『日本史サイエンス』を読む(その3)>(2021.6.23公開)

 「・・・竹崎季長<(注2)>がわずか5騎で蒙古軍に突撃した鳥飼潟の塩屋の松付近は、当時は塩田があり、潮の満ち引きがある場所でした。

 (注2)「肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)の出身。菊池氏の一族である・・・
 文永の役(元寇)では、日本軍の総大将・少弐景資が陣を敷く息の浜に主従五騎のみで参陣した。・・・総大将・景資は息の浜に陣を敷き、元軍が赤坂から博多に押し寄せてくれば、一斉に元軍に騎射を射かける計画であった。しかし、季長は景資に、元軍に対して先駆けを行うことを申し出て、景資もそれを許可した。季長は手勢五騎で元軍の方に向かった。途中の赤坂では既に肥後国御家人・菊池武房率いる武士団が元軍を破り(赤坂の戦い)、多くの元兵の首を打ち取っていた。季長は武房ら武士団が帰陣するところに遭遇する。季長は赤坂の戦いで敗走した元軍を追って、鳥飼潟まで進出した。麁原山に陣を敷く元軍も鳥飼潟に進出したため、季長は先駆けを行う。しかし、季長以下三騎が負傷し、危機的な状況に陥ったが、後続から肥前国御家人・白石通泰や同国御家人・福田兼重ら日本軍が到着して、元軍を破った(鳥飼潟の戦い)。破れた元軍は麁原山や百道原へと敗走した。戦闘は日が暮れたのを機に終結し、後日の戦闘続行を困難と判断した元軍はその夜に博多湾から撤退し、文永の役は終結する。
 季長の武功は負傷したのみであり、戦功とは認められなかったかあるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長は「先駆の功を認めてほしい」と、・・・1275年・・・6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴する。同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷(現熊本県宇城市海東地区)の地頭に任じられた。
 弘安4年(1281年)、第二次侵攻である弘安の役では、肥後国守護代・安達盛宗(泰盛の子)の指揮下において、志賀島の戦いや御厨海上合戦で敵の軍船に斬り込み、元兵の首を取る等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B4%8E%E5%AD%A3%E9%95%B7
 「菊池氏<は、>・・・本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。・・・
 日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人と化したが、1180年(治承4年)源頼朝が兵を挙げると翌1181年・・・6代菊池隆直は・・・平家に反抗した。隆直は翌年平貞能の率いる追討軍に降伏し、以後、平家の家人として治承・寿永の乱(源平合戦)に従軍したものの、壇ノ浦の戦いにおよんで源氏方に寝返り御家人に名を連ねた。源平の間を揺れ動いたことで頼朝の疑念を招き、隆直への恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を本拠地周囲に配置され、その牽制を受けた。
 8代菊池能隆は承久の乱において後鳥羽上皇方にくみしたため、北条義時によって所領を減らされた。乱後、鎌倉幕府は鎮西探題を設置して、西国の押さえとした。10代菊池武房は元寇に際して、鎌倉幕府から博多に召集され、一族郎党を率いて元軍と戦闘を交え敵を討ち取った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%B0%8F

 当日の博多湾東浜は朝6時40分ころが干潮、13時が満潮で、潮位差は1mありました。
 両軍が増員されて激戦になったとみられる午前9時ころは、潮が満ちはじめて足場が悪くなり、蒙古得意の集団戦は難しくなってきていたと思われます。
 したがって矢戦に続いて白兵戦の打ち物戦となったと推定されますが、そうなると短槍や短い諸刃剣で戦う蒙古軍よりも、日本刀と長刀、大鎧を装備した武士団のほうが有利と思われます。
 足場の悪い干潟で武士団の集団騎馬突撃が可能だったかは定かではありませんが、長距離を突撃するわけではなく、せいぜい200mくらいなので、蒙古軍の陣立てを破ることは可能だったとみられます。
 騎馬と歩兵では戦闘力が8~38倍の差があるため、蒙古歩兵600人に対し武士団騎馬100騎余ならば、騎馬が有利です。

⇒播田が、仮定を置いて自分で計算した数字、ではない数字、を用いる、といった場合には、他人が著した典拠を付す必要がありますが、ここで、播田は典拠を付けていません。
 ネットに少し当たった範囲では、数字をあげた典拠は全く見つかりませんでした。
 一般論として、1対1で、見通しの良い平地で出会ったとすれば、騎兵が歩兵に勝つのは、(1対1ではなく、1対1プラス馬1、であることを思い出すだけでも(!))当たり前です
https://togetter.com/li/1216025
が・・。(太田)

 午前10時の時点で揚陸数はおそらく3往復ほどで、兵士と兵站の3分の1程度しか上陸できていなかった蒙古軍は、多数の死傷者を出したうえに、11時ころには潮がさらに満ちて干潟も狭くなり、百道浜に退却せざるをえなくなったと考えられます。
 もちろん蒙古軍も、上陸が完了するごとに浜から駆けつけはするのですが、そうした少しずつの増援は兵力の逐次投入と呼ばれ、軍事上は最も避けるべき戦い方とされています。」(73~74)

⇒ここの兵力の逐次投入の愚についても、播田は典拠を示してはいません。
 ランチェスターの法則
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
にでも言及するくらいの労は惜しまないでほしかったところです。(太田)

(続く)