太田述正コラム#11942(2021.4.6)
<播田安弘『日本史サイエンス』を読む(その9)>(2021.6.29公開)

 「・・・秀吉自身<は、>6月5日に、摂津の中川清秀<(注6)>に対して、今京都から下ってきた者から聞いた確かな話として、このようなことを手紙に書いて送ってい<ま>す。・・・

 (注6)1542~1583年。「摂津源氏の流れを汲む多田行綱の子の明綱(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と称した。・・・1580年・・・秀吉と・・・兄弟の契りを結んだ<。>・・・1582年・・・、本能寺の変で信長が横死した後は右近と行動を共にして羽柴秀吉につき、山崎の戦いで活躍した。翌・・・1583年・・・、賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、大岩山砦を右近、三好信吉らと守っている時、柴田勝家軍の佐久間盛政の攻撃に遭って戦死した。・・・
 家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した。なお、秀成は秀吉の命令によって父・清秀を討った佐久間盛政の娘を娶ることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B8%85%E7%A7%80

 信長・・・も、信長と同じ日に自害した長男の信忠・・・も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れていると<(注7)>・・・

 (注7)「二条御新造(二条城)に拠って明智勢を相手に奮戦し・・・<て>・・・討死した・・・武将<には、>・・・福富秀勝<のほか、>・・・猪子高就、毛利良勝、菅屋長頼、野々村正成、村井貞勝など<がいたが、>・・・秀吉は、この手紙の中で、「>・・・福富の功績は比類ない」と<も書いている。ちなみに、>・・・清秀<は、福富>・・・秀勝と知己だった<。>・・・
 結果的に・・・清秀はじめ摂津衆・・・は秀吉側に加勢し、これが山崎の戦いの趨勢を動かす一因となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%AF%8C%E7%A7%80%E5%8B%9D

 もちろん、とんでもない虚偽の情報であり、秀吉がこの時点ですでに、謀反は失敗だったと清秀に思わせて光秀に加担させないようにし、光秀との決戦を有利に運ぼうと言う明確な意図をもっていたことがわかります。・・・」(145~146)

⇒光秀勢が信長の遺体を確認できなかったことは良く知られていますが、信忠の遺体についてはどうだったのかを改めて調べてみました。↓
 「織田信忠<は、>・・・京都の妙覚寺・・・に滞在しており、信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると、本能寺へ救援に向かうが、信長<が>自害<した(可能性が高い(?)(太田))と>の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代の村井貞勝や斎藤利治ら側近と共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動した。信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0
 「<その後、>明智勢はついに<二条新御所の>屋内に突入して、建物に火を放った・・・
 信忠は、切腹するから縁の板を外して遺骸は床下に隠せと指示し、鎌田新介<(注8)>に介錯を命じた。

 (注8)「鎌田新介<は、>・・・本能寺の変では二条城にて信忠に仕え、信忠が自害する際に介錯を務めた。この際、『当代記』では切腹して殉死したとされるが、『明智軍記』・『武家事紀』・『甫庵信長記』では、井戸の中に飛び込み身を隠し、夜半になってから忍び出たと伝わる。のち高野山で謹慎していたが、豊臣政権下で大名となった福島正則に仕え、朝鮮出兵に従軍<し、>・・・1597年・・・8月、南原城攻撃にて軍功を挙げた。南原城攻撃にて討死したとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%96%B0%E4%BB%8B

 一門衆や近習、郎党は尽く枕を並べて討死しており、死体が散乱する状況で、火がさらに迫ってきたので、信忠は自刃し、鎌田は是非もなく首を打ち落して、指示に従って遺体を隠した。・・・
 (御新造が焼け落ちたことで)信忠の遺体も「無常の煙」となった。・・・
 <しかし、その一方で、>信忠付の家臣であった前田玄以は<、明智方が妙覚寺ないし二条御新造に攻め寄せる前に、或いは、二条御新造の四囲を取り囲むまえに(太田)、>岐阜<へと>逃れ、信忠の子三法師を守って清須に赴いた。・・・『当代記』によれば、妙覚寺に滞在していた信長の弟・織田長益(源五、後の有楽斎)は・・・戦いの中脱出し、安土城を経て岐阜へと逃れた。また刈谷城主の水野忠重も脱出している。『三河物語』によれば、長益と山内康豊(一豊の弟)は狭間をくぐって脱出したと云う」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
 つまり、秀吉は、信長についても信忠についても、死んだ可能性が高いが確証はない、ということに加えて、福富秀勝が織田信忠の下で死んだ、という正確な情報を6月3日から5日の間に入手するところとなっていたからこそ、このような内容の虚偽の手紙を中川清秀に送り、その内容が疑う余地のないものだったので清秀を騙すことができた、ということであり、こんなことができたことからも、秀吉が、光秀のしかるべき部下たるスパイを持っていたことが裏付けられるのではないでしょうか。(太田)

(続く)