太田述正コラム#11950(2021.4.10)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その33)>(2021.7.3公開)
「武官官位については、<足利>将軍に推挙権があった。
公式には、朝廷から位記<(注110)>(いき)(位階を受けたことを伝達する文書)や口宣案<(注111)>(くぜんあん)(勅命を奉じた叙任文書)が出されて任官叙位されたのである。・・・
(注110)「位階を授けるときに発給する公文書。飛鳥浄御原令の施行にともない689年(持統3)はじめて発行されたが,このときは冠位と位記を併用した。しかし,大宝令の施行とともに冠位を廃し,位記一本立てとした。以後の冠は五位以上の礼服冠にのみ位階による別を規定したが,日常の勤務には五位以上はみな縵(くりのまん)頭巾を着用することとし,服色で位階を区別するにとどめた。律令官人は罪を犯して官当などでは位記を毀する(原簿に<記事>を注し外印を押す)ことで実刑にかえるなど,位記が重要な役割をはたした。養老の公式令によれば位記には勅授,奏授,判授の別があり,それぞれに書式が定められた。勅授とは勅によって五位以上の位階を授けることであり,奏授とは太政官が奏聞して六位以下を授けること,判授とは式部省(兵部省)が判定して外八位以下を授けることをいう。なお,文官は式部省がこれを授け,武官は兵部省が授ける。」
https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%E4%BD%8D%E8%A8%98/
(注111)「勅旨伝達のさい作られる文書。内侍(ないし)から勅旨を承った蔵人(くろうど)は,その趣旨を紙に書き(口宣書)心覚えとしておき,上卿(しょうけい)(その事柄を担当する公卿)へは口頭で伝えた。後に口宣書を上卿に渡す慣例となり,これは元来公にすべきものでなかったため口宣の案文(あんもん),すなわち口宣案という。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A3%E5%AE%A3%E6%A1%88-55414
戦国大名の献金と任官叙位とは密接に結びついていた。
後奈良天皇の即位礼は、10年もの間遅延した。
朝廷からの献金要請に応じた戦国大名は、大内義隆(2240貫文)・北条氏綱(500貫文)・今川氏親(300貫文)・朝倉孝景(100貫文)・長尾為景(100貫文)・武田元光<(注112)>(もとみつ)(50貫文)・土岐頼芸(10貫文)などであった。
(注112)1494~1551年。「若狭国守護。若狭武田氏6代当主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%85%83%E5%85%89
大内義隆の額が桁違いだったことが一目瞭然で、・・・石見の銀山と日明貿易の収益を基盤に朝廷に・・・御所・・・修造費を進上し・・・<更に上述の即位費用を>献金<する等を行い、>・・・左京大夫・・・<更には、>太宰大弐(大宰府の次官)・・・に任じられた。・・・
ちなみに、・・・1559<年>の正親町天皇の即位に際し、毛利元就・隆元父子は、かつての主家・大内義隆の場合と同様に2000貫文を献じて、位階が昇った。・・・
秀吉は、武家官位の朝廷への官位執奏権を掌握した。
将軍の職能から、関白の権限のごとくすり替えたのである。・・・
<更に、>1591<年>・・・5月3日、全国の大名にたいし、「御前帳」を提出させた。
御前帳とは、・・・大名分国の知行地に関する検地帳である。
あわせて「郡図」と呼ばれた国絵図の上納を命じた。
御前とは、「主上御前」のこと。
・・・もちろん天皇のことである。
当時は後陽成天皇。
日本国の土地と人民を、国王である天皇のもとで統治する国家体制を、あらためて宣言するための政治儀礼だった。
実際には、石高制の全国への施行と、翌・・・1592<年>に始まる朝鮮出兵の軍役を決定するための施策と考えられる。・・・
このように、朝廷の権威が戦国の動乱の時代においても保持された第一の理由は、任官叙位の権能にあったといってよいだろう。
結果的には、朝廷の権能を庇護したのが、戦国大名であり、天下人だったということができる。
戦国大名の国家間の対立が、超越的な権威としての朝廷の儀礼的秩序を頼り、天皇および天皇制を維持させたのである。」(218、220、224)
⇒天皇論、ないし、天皇制論、は、改めて正面から論じられる必要がありますが、鍛代は、秀吉が天下人であった、ポスト戦国時代における「天皇の権能<が>庇護<された>」理由の説明おいて、論理的に舌を噛んでしまっています。
そもそも、そういうアプローチではなく、歴代諸天皇の姿勢と努力に目を向けなければならないのです。
歴代諸天皇の大部分がその努力もあって個人としても尊敬に値する人々であったことに加え、彼らの大部分によるところの、人間主義的統治の標榜と実践、及び、彼らの少なからぬ部分が行ったところの、国家戦略の基本に関する適切な方向性の示唆、が、天皇制の持続をもたらした、と、我々は見るべきなのです。
武家達の任官叙位への憧れ、より一般的に言えば、朝廷の儀礼的秩序への依存、は、その結果に過ぎません。(太田)
(続く)