太田述正コラム#11952(2021.4.11)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その34)>(2021.7.4公開)
「・・・神国思想と天道思想<は>、コインの表裏の関係にあった・・・。・・・
⇒私見では、余計なものを削ぎ落せば、そのコインは人間主義です。(太田)
<1561>年、島津忠良の五ヶ条<(注113)>の教訓第四条・・・では、島津家中と分国の「国家」のために不惜身命、他人の言葉を大事にすれば、天道、神慮、仏法の加護があると断言する。
(注113)ネット上を少し探した限りでは、原典を発見できなかった。国家を「島津家中と分国」に限定していたとは考えにくいのだが・・。
⇒機会あらば、忠良によるいろは歌の内容
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiv_sOLzvXvAhVCeXAKHVs-AG0QFjAAegQIChAD&url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F56655763.pdf&usg=AOvVaw2JPCjiNqGA8c8368LkUUan
と比較してみたいと考えていますが、私には、取敢えず、「天道、神慮、仏法」は、「人間主義、神道、仏教」を指しているように思えます。(太田)
同年の北条氏書状も、分国中に発布した徳政令や目安箱の設置に触れ、道理を重んじ依怙贔屓を否定し、万民を哀れんできたのだから、関八州は北条家の掌中にある<のであって、>それは「天道明白」<である、>と強調する。
⇒少なくとも、北条氏康
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%BA%B7
によるこの北条氏書状からは、天道が人間主義と同値であったことが示唆されています。(太田)
このような戦国大名の天道思想が、天下人に引き継がれていった。・・・
ルイス・フロイスは、・・・安土城の山上に総見寺<(注114)>を建立したした信長は、聖日と定めた誕生日に参詣させて、「予自らが神体である」と宣言したと伝える。
(注114)摠見寺。「臨済宗妙心寺派の寺院。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A0%E8%A6%8B%E5%AF%BA
安土には五層七重の「天主」<(注115)>(天守)の城と、諸宗を「総見」する寺とが、王権と仏法を融合するかのように聳え立った。・・・
(注115)「「てんしゅ」の名前の起こりには諸説ある。・・・<その中に、>岐阜城の天主が始まりで、織田信長が策彦周良に依頼して、岐阜城の麓にあったという4階建ての御殿に命名したものという説(宮上<茂隆>説)<がある。>・・・
一般的に今日見られる本格的な5重以上の天守の最初のものとされているのは織田信長が・・・1579年・・・に建造した安土城・・・の天主であるといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%88
策彦周良(さくげんしゅうりょう。1501~1579年)は、「臨済宗の禅僧、外交官。・・・室町幕府管領細川氏の家老井上宗信の三男<。>・・・大内義隆の主催によ<る>・・・勘合貿易船(遣明船)<の>・・・副使<を1回、>・・・正使<を1回、務める。>・・・
1556年・・・11月17日・・・には今川義元主催の詩歌会に参加し、・・・同年から翌年にかけて、武田信玄に招かれて甲斐に赴き、恵林寺住職となって滞在。 正親町天皇からの信頼も篤く、勅命により曲直瀬道三の著『啓迪集』の序文を寄せている。この他にも織田信長をはじめ、・・・多くの公家・武士らと交流したが、自身はあまり世に出るのを望まず、住職として妙智院で隠棲し、天竜寺の護持に務めた。また、詩文にすぐれ『謙斎詩集』『城西聯句』『漢倭聯句』など、五山文学史に多くの作品を残している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%96%E5%BD%A6%E5%91%A8%E8%89%AF
宮上茂隆(1940~1998年)は、東大建築卒、「同助手、1980年辞職、竹林舎建築研究所を開設し、日本建築史の研究や復元などを行なった。83年、20年がかりで大坂城本丸の設計図面を復元した。
1979年 東京大学より工学博士号。論文の題は「薬師寺伽藍之研究 」。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%8A%E8%8C%82%E9%9A%86
⇒摠見寺の建立は、単に、(武家にとって)仏教の宗派としては臨済宗が一推しであるとの極めて常識的な宣言を行ったものに過ぎず、また、天主については、私は「注115」にある宮上説を採りたいのですが、天主の建設も、単に、「1567年<、>・・・信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代<支那>で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%9F%8E
ことの延長でしかないのであって取り立てて「天主」という命名に意味があるとは思いません。(太田)
秀吉は豊国大明神となった。
家康は東照大権現として祀られ、「大神君」として顕彰された。」(226~228、232)
⇒日本人にとっての「神」の身近さ(典拠省略)に照らし、私は、信長の「神体」、秀吉の豊国大明神、家康の東照大権現、なるそれぞれの「自称」に、大した意味があるとは思っていません。(太田)
(完)