太田述正コラム#11954(2021.4.12)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その1)>(2021.7.5公開)
1 始めに
今度は表記であり、今度こそ少しは息抜きができることを期待しているのですが、やっぱり無理かも。
なお、福島克彦(1965年~)は、立命館大文卒、愛知県立高校教諭、大山崎町歴史資料館館長(奥付)、という人物です。
2 『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む
「光秀本人が土岐氏系統の一族であったとしても、彼自身が美濃出身であるかどうかはわからない。<(注1)>・・・
(注1)「光秀の生年ははっきりしておらず、没年は数え年で67歳ともいわれてい<る>(55歳説など諸説あり)。逆算すると歴史の表舞台に登場したのは50代で、当時としてはすでに老年期にさしかかっていた」
https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/116546.html
一般に室町殿と呼ばれている将軍の御座所は、築地(瓦屋根つきの塀)で囲まれた区画に主殿、常御殿(つねのごてん)、会所、庭園が配置されていた。
・・・足利将軍は、洛中に御所は設けるものの、防禦施設を伴う城館を構築しなかった。
京都に城を築くことが静謐を脅かし、「乱世ヲ招ク」と認識されたためである(細川大心院記<(注1)>)。・・・
(注1)「細川政元の若狭下向と以後の政変を記した書」
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/991
細川政元(1466~1507年)は、「室町幕府24、26、27、28代管領。摂津国・丹波国・土佐国・讃岐国守護。細川氏12代当主。足利将軍家の10代将軍義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。・・・修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E5%85%83
彼の「戒名<が>大心院殿雲関興公大禅定門」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E5%85%83
<しかし、>16世紀前半に入ると戦国期京都がたびたび戦火に晒されることから、いよいよ将軍も山城を築くようになってきた。
<父義晴の試みの後、>1559<年>8月、義輝は上京の政庁(御所)に、防禦施設を合体させた「武家御殿・御堀」・・「公儀の城」・・を構築する・・・。・・・
しかし、防禦施設を補強している最中、<1565>年5月に三好三人衆に襲撃され<て命を落としてしまう>。
<その後、将軍に就任した義輝の弟の>義昭は・・・[本圀寺<(注2)>を居所としていたが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E ]
・・・義輝の遺構の跡地に、「武家御城」を築造しようとした。
(注2)「本圀寺(ほんこくじ)・・・<の前身>が鎌倉から<本圀寺となって>京都へ移ったのは・・・1345年・・・のことである。同年、<日蓮から始まる>4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。・・・日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。・・・1398年・・・には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA
義昭は信長を奉行にして、この普請を進めさせている・・・。<(注3)>・・・」(11、15~16)
(注3)「信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築され、さらには屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれ<た。>・・・なお・・・1572年・・・3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。建築物を奪われることに困った本圀寺の僧侶らは松永久秀に、信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られた。また1500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供も申し出て免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかった。
ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、<1572>年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌・・・1573年・・・3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城<(武家御城)>を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。
この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は・・・1576年・・・に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。」(上掲)
⇒信長がどうして義昭の居所を本圀寺に定めたのか、また、その後、武家御城の築造、や、未完に終わったところの、信長屋敷の建造、にあたって、本圀寺を事実上懲罰するようなことをしたのか、かつまた、遡って、どうして、足利氏と光明天皇は本圀寺「創建」を支援したのか、について、次回東京オフ会「講演」原稿で仮説的私見を開陳するつもりです。(太田)
(続く)