太田述正コラム#11956(2021.4.13)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その2)>(2021.7.6公開)

 「光秀<や>・・・村井貞勝<(注4)>・・・<ら>織田系奉行たちは、義昭や信長の指令を一方的に伝えるだけでなく、現地の事情を聞き、それを上位の義昭、信長へと伝え、審議するという重要な役回りを担っ<てい>た。

 (注4)?~1582。「1556年・・・に織田信行が兄の信長に叛旗を翻した時にはすでに信長に仕えており、島田秀満(秀順)と共に土田御前の依頼を受けて、信行や柴田勝家らとの和平交渉を行った。信長が足利義昭と共に上洛した際も同行し、明院良政・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たっている。
 西美濃三人衆降誘の際の人質受け取りや足利義昭の庇護、上洛後の二条城の造営、その他社寺との折衝など、織田家の政務を担う。朝山日乗と共に京都御所の修築も担当している。
 足利義昭を追放した信長が京都を完全支配下に置いた後、・・・1573年・・・7月、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられる。松井友閑・武井夕庵・明智光秀・塙直政らの信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、およそ信長支配体制下における、京都に関する行政の全てを任されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E8%B2%9E%E5%8B%9D

 特に寺社権門の利害が絡む畿内・近国では、こうした側面が強かったと思われる。・・・
 <また、>当初上京・下京の町人との初期対応は・・・朝山日乗・・・が担当し、あとの譴責は織田系武将たち<の>・・・織田信広(信長の庶兄)、森可成<(注5)>(もりよしなり)、村井貞勝、明智光秀の4名・・・が担うという分担がなされていた。・・・

 (注5)1523~1570年。「家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・鎮守府将軍八幡太郎義家の7男・陸奥七郎義隆の子孫にあたる。・・・森氏は義隆の3男・若槻頼隆の次男・森頼定に始まる<。>・・・可成の家系は頼定の次男・森定氏の子孫が美濃に住んで代々土岐氏に仕えた。・・・<可成は、>斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の・・・1554年・・・には尾張国で織田信長に仕えた(一説には斎藤氏家臣の長井道利に仕えた後の仕官とも)。・・・浅井長政・朝倉義景の連合軍<との戦いで>・・・討死した・・・。・・・信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちすることになる原因の1つになったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E6%88%90

⇒朝山日乗については、次回の東京オフ会「講演」原稿で詳細に取り上げます。(太田)

 この後、信長は光秀と接近するようになり、・・・<1570>年、二度も京都を訪れた際、・・・<光秀の>所に宿泊している・・・。・・・

⇒福島には大変申し訳ないが、この辺りから、真面目に読む気がなくなってしまいました。
 史観がおかしい、とか、その出来事についての解釈がおかしい、というレベル以前の、根本的な問題を福島のこの本は抱えているからです。
 それは、自分が知っていることを、次々に、殆ど脈絡なく並べ立てているだけで、福島が何を言いたいのかさっぱり分からない、という問題です。
 そこで、以下、斜め読みしつつ、私の関心を引いた事柄だけをピックアップして行く形で、とにかく、この本の最後までたどり着く、という感じで進めたいと思います。(太田)

 <1571>年9月晦日には、光秀は信長の家臣たる嶋田秀満<(注6)>(しまだひでみつ)、塙直政<(注7)>(ばんなおまさ)と室町幕府奉行人松田秀雄(まつだひでお)との連署によって、・・・「公武御用途」のために、田畑一反別に一升のコメの賦課を命じ、10月15日より20日までの間に洛中妙顕寺<(コラム#11338、11375)>(みょうけんじ)に運上するよう通達している。・・・

 (注6)?~?年。「兼見卿記(吉田兼見著)の・・・1575年・・・4月11日条に載ったのを最後に史料からは登場しなくなったため、この後、間もなく没したとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%A7%80%E6%BA%80
 (注7)?~1576年。「最盛期には・・・同年代の柴田勝家ら宿老に勝るとも劣らない勢力を保持していた。・・・
 1576年・・・4月、明智光秀・荒木村重・細川藤孝・三好康長らと共に石山本願寺攻めに出陣し、主力として西の三津寺攻略を担当したが、本願寺側の伏兵に遭い乱戦の中で討死した(雑賀衆の鈴木重秀の軍に討ち取られたといわれている)。これにより戦線が崩壊しかけ織田軍は危機に陥ったが、信長自らによる奮戦によって戦線を再び持ち直すことに成功した(天王寺合戦)。直政と共に伯父の塙安弘や弟の小七郎など一族の武将も多くが戦死しており、有力な人物を失った塙一族は信長に敗戦の責任を負わされる形で没落した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E7%9B%B4%E6%94%BF

⇒信長が、あらゆる機会をとらえて、京の日蓮宗の寺院を活用していることに注目すべきでしょう。
 なお、信長の、尾張時代からの家臣である村井、嶋田、塙、そして、美濃時代からの家臣である森、の中の村井以外が死亡してしまい、信長が、村井、と、1573年にようやく信長専属の家臣になった、外様の光秀、の二人だけに、爾後、中央(京)において、それぞれ、行政、と、軍事、を担当させざるをえなくなったことが、本能寺の変が可能な背景を創り出してしまったように、私には思えてなりません。(太田)

 <これは、>京都周辺から山城国中が対象となったと考えられる。・・・
 こうして収蔵した米は、禁裏の賄い(財政)のために、上京・下京の「一町」に五石ずつ貸付米として預け置かせた。
 ・・・その利息は三割とし、<翌>年正月より毎月一町ごとに一斗二升五合を納めるよう命じている。・・・」(24、26~27、37)

(続く)