太田述正コラム#11962(2021.4.16)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その5)>(2021.7.9公開)

 「ここで信長は、村重の拠点伊丹を攻める準備を進める一方、今まで敵対してきた大坂本願寺との和睦の道を模索する。
 村重蜂起の影響がさらに広がることを恐れていたのである。
 11月4日、信長は村井貞勝をもって朝廷と交渉し<たところ、>・・・早速、朝廷から大坂本願寺に対し、勅使<二名が>・・・が派遣された。
 <しかし、>本願寺側は、・・・毛利方の<水軍による>協力を想起すれば、大坂だけが和睦するわけにはいかないと述べたのである。
 そこで信長はこの要請に応じ、本願寺のみならず毛利氏も赦免(和睦)する内容へと方針を変更した。・・・
 早速和睦の勅使が、今度は西国の毛利輝元のもとへ派遣される計画が廻らされた。・・・
 <その一方で、>信長は、摂津東部の高山右近<(注14)>と中川清秀<(コラム#11942)>の切り崩しを図った。

 (注14)1552~1615年。「父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。・・・
 1563年・・・に10歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で・・・<日本人>イエズス会修道士・ロレンソ了斎<(コラム#11946)>の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た。・・・
 <1587年に>バテレン追放令を出した秀吉は右近の才能と功績を惜しみ、茶道の師匠である千利休を遣わせて棄教を促したが、右近は「宗門は師君の命を重んずる、師君の命というとも改めぬ事こそ武士の本意ではないか」と答え<ている>。・・・
 1614年・・・、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受け<、フィリピンのマニラに亡命し、到着後40日で病に斃れた。>・・・
 2016年・・・1月22日に教皇フランシスコが・・・福者に認定・・・した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91

⇒客観的には、高山右近は、欧州勢力による世界侵略の尖兵の役割を果たしたわけであり、右近が高槻城主であった縁で、高槻市が、日比両国で右近の顕彰活動に積極的に参画している(上掲)ことは遺憾です。(太田)

 まず、・・・キリスト教の宣教師に対して、右近の誘降に成功すれば布教を保護するが、しなかった場合はただちにこれを弾圧すると述べたのである。
 この宣教師が信長の通告を伝え、右近を説得すると、彼はこれに応じ、信長のもとに出頭した。
 一方、清秀は村重から派遣されていた<武将達>とともに茨木城に籠城していた。
 しかし<1579年>11月23日、信長が近隣の総持寺に陣取って、茨木城に攻勢をかけると、清秀は<武将達>を追い出し、信長方に帰順することになった。・・・
 この段階で、信長は自ら進めていた本願寺・毛利氏との「勅諚和談」を見直すことを決定した。
 高山右近、中川清秀が帰参したことで、独力で村重を屈服させる自信がついたのであろう。・・・
 <その間の1579年>10月24日、丹波・丹後両国を平定した光秀は安土城に参上して信長に拝謁し、志々良(しじら織のこと。・・・)100端の進上を受けたという・・・。・・・
 <結局、>村重・・・は、・・・1580<年>3月、・・・船舶を使って毛利方のもとへ逃亡した。
 一方、2年近く籠城を続けた播磨三木城の別所氏も、<1580>年正月、開城に応じた。・・・
 長治以下は切腹し、城兵が助けられることになったという。
 こうなると、次は大阪本願寺の行方が焦点となった。
 再び、信長は朝廷を通じて勅使を派遣し、大坂退城に関する勧告がなされた。
 <1580>年8月4日、本願寺の宗主顕如<(注15)>はこの勧告を受け入れ、・・・退去した。

 (注15)1543~1592年。「父は第10世宗主の証如・・・。・・・母は庭田重親の娘・顕能尼<。>・・・室は左大臣・三条公頼三女の如春尼。・・・如春尼の実の姉は武田信玄の正室・三条夫人であり、信玄と顕如は義兄弟にあたる。・・・長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。・・・
 武装した僧侶や信徒と共に、神仏の冒涜を繰り返した織田信長を敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて、天下統一を目前で阻止した。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げた<。>・・・
 顕如が没すると、石山本願寺退去時に信長への対応をめぐって和睦派の顕如と意見を異にした強硬派の長男教如に替えて、三男の准如が12世宗主に立てられることになった。教団内部での対立が進行する中、徳川家康により京師に新たな寺地が寄進されたことを受けて、教如と彼を支持する勢力は・・・1602年・・・に独立して東本願寺を設立した。こうして本願寺は准如の西本願寺と教如の東本願寺とに分裂することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%A6%82

⇒顕如は、仏教を標榜する宗派の長でありながら、武家のいでたちをして(上掲中の写真参照)戦争を日本の各地で惹き起こすと共に、信長の日本統一事業を阻止する勢力の重要な一翼を担ったわけであり、前者は聖徳太子コンセンサスにおいて仏教指導者達に期待された役割への異逆行為であり、後者は日蓮主義への敵対であって、両々相俟って、日本、ひいては世界に対して、甚大な悪影響を及ぼした、と、断じられるべきでしょう。(太田)

 顕如の子息教如は信長に対する徹底抗戦を主張したが、結果として屈服し、同年8月、自身も大坂を退くことになった。・・・
 1570<年>以来、信長に抵抗し続けた大坂本願寺も、ついにこの地を明け渡すことになったのである。・・・
 <その直後、>信長は長きにわたって大坂本願寺攻めに従事していた佐久間信盛・信栄(のぶひで)父子に追放処分を下した。」(97~100、111、113~114)

(続く)