太田述正コラム#11966(2021.4.18)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その7)>(2021.7.11公開)

 「・・・注目されるのは、・・・翌・・・1581<年>6月2日に光秀による家中軍法が制定されている点である。
 この軍法には、百石単位の賦課基準が定められており、指出との関係が注目される。・・・
 <この家中軍法の中で、>光秀が自らを「瓦礫沈倫之輩」と呼び、落ちぶれた存在だったところを信長に見出されたと強調している。
 少なくともこの段階では、光秀に信長に対する離反の意識は見られないと言われている(高柳光寿<(注18)>『明智光秀』)。

 (注18)たかやなぎみつとし(1892~1969年)。國學院大(国史)卒、東大史料編纂所勤務を経て、國學院大教授、大正大教授(兼務)。「それまで旧参謀本部『日本戦史』によって通説化していた様々な戦国史について再検討を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9F%B3%E5%85%89%E5%AF%BF
 「本能寺の変<の原因については、>・・・江戸時代から明治・大正を経て昭和40年代ごろまでの「主流中の主流」の考えは、野望説と怨恨説であった。「光秀にも天下を取りたいという野望があった」とする野望説は、謀反や反逆というものは下克上の戦国時代には当たり前の行為であったとするこのころの認識から容易く受け入れられ、古典史料に記述がある信長が光秀に加えた度重なる理不尽な行為こそが原因であったとする怨恨説と共に、史学会でも長らく揺らぐことはなかった。・・・
 戦後には実証史学に基づく研究が進んだが、この分野で先鞭をつけた高柳光寿は野望説論者で、昭和33年(1958年)に著書『明智光秀』を発表してそれまで比較的有力視されてきた怨恨説の根拠を一つひとつ否定した。怨恨説論者である桑田忠親がこれに反論して、両氏は比較的良質な一次史料の考証に基づいた議論を戦わせたが、桑田は昭和48年(1973年)に同名の著書『明智光秀』を発表して、単純な怨恨説(私憤説)ではなく武道の面目を立てるために主君信長を謀殺したという論理で説を展開したので、それが近年には義憤説、多種多様な名分存在説に発展している。信長非道阻止説の小和田哲男もこの系譜に入る。また野望説は、変後の光秀の行動・計画の支離滅裂さが批判されたことから、天下を取りたいという動機を同じにしながらも事前の計画なく信長が無防備に本能寺にいることを見て発作的に変を起こしたという突発説(偶発説)という亜種に発展した。しかし考証的見地からの研究で判明したことは、結局、どの説にも十分な根拠がないということであり、それがどの説も未だに定説に至らない理由となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

 実際、光秀は軍法の対象となる与力、家臣たちに対して、活躍すれば速やかに信長の「上聞」に達すると述べており、信長を上位に立てて奮起を促している。
 しかし一方で、信長への私的な忠誠とは別個に、「国家」<(注19)>「公務」<(注20)>といった公儀概念を上位に置こうとする姿勢も注目される。・・・

 (注19)「<日本の>国<ないし>・・・朝廷<をさす場合がある。>・・・<そのほか、>天皇をさす<場合がある。用例:>・・・円覚寺文書‐(弘安六年)(1283)七月一八日・無学祖元書状「誠是国家及大将軍、太守、千年植福之基、万劫作仏之本」<。>・・・<また、>戦国大名の領国<をさす場合もある。用例:>・・・朝倉孝景条々(1471‐81)一六条「諸卒を下知し、国家無恙候」」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6-65173
 (注20)「自分個人のことではない、おおやけのつとめ。・・・十七箇条憲法(604)<で、既にそのような意味で使われている。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%8B%99-497563

 <すなわち、>守られていない法度の状態、さらに「武勇無功之族(やから)」がはびこる状況は「国家之費(ついえ)」であり「公務」を掠め取るに等しいと評している。・・・
 ・・・こうした公儀の方向性は、上級権力者たる信長が提示しえなかった点であり、光秀は自らを卑下し、へりくだった姿勢を示しながらも、こうした公儀性を積極的に押し出そうとしていた。」(129、131~132)

⇒私には、福島の受け止め方がすとんと胸に落ちません。
 少なくとも、福島は、信長が、国家や公務といった言葉を用いなかったことを、何らかの方法で疎明すべきでした。
 なお、高柳光寿によるところの、1581年6月の時点では光秀に離反の意識なし説ですが、既述したように、私は、「波多野/荒木と別所」と同じ理由で、彼らが信長に反旗を翻した当時(1587頃)、光秀も既に離反の意識を抱いていたと見ているところ、彼らの失敗と無残な最期を見届けているだけになおさら、爾後、彼がそんな意識を毛ほども他人に気取られないようにするのは当たり前であり、高柳説には全くもって首肯いたしかねます。(太田)

(続く)