太田述正コラム#11974(2021.4.22)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その11)>(2021.7.15公開)

 「これと併せて、・・・1580<年>頃、織田権力に突きつけられたのが、四国との関わりである。
 当時、織田権力は、土佐の長宗我部元親<(注32)>(ちょうそかべもとちか)との対応に迫られていた。・・・

 (注32)1539~1599年。「長宗我部氏第21代当主。・・・母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。・・・土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。・・・
 山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(後の春日局)を岡豊城でかくまったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
 「長宗我部氏<は、>・・・始皇帝の末裔という古代豪族秦氏の子孫とされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E6%B0%8F

 信長は上洛以前から長宗我部氏と通じていたと伝えられる。・・・
 当初、信長は畿内・近国において影響力を持っていた阿波の三好氏との対抗関係から、その背後にいた長宗我部氏との関係構築に積極的<で、>・・・元親による阿波進出を誘発していたと<も>言われている。
 実際、<1575>年に土佐一国を統一した元親は、以後隣国阿波、讃岐、伊予への出兵を続けていた。
 しかし、ちょうど同じ<1575>年4月頃に、高屋城で抵抗していた三好康長<(注33)>が織田方に投降した頃から、次第に潮目が変化していく。

 (注33)?~?年。「三好氏の一門衆で、甥に当たる宗家当主・三好長慶に従い、その弟で阿波国主の三好実休に仕えて、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。三好の本貫地である阿波を拠点とする。
 ・・・1558年・・・に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍・足利義輝、細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸。・・・1560年・・・3月、長慶・実休兄弟の和解の仲介役を果たし、河内遠征でも実休の名代として長慶と対面した。
 ・・・1562年・・・3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。同年の実休の死後は拠点を河内高屋城に前進させ、他の家臣団と協力して実休の遺児・三好長治を支えた一方で、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7

 康長が織田権力に恭順する意思を示すと、信長はその能力を高く評価し、河内半国を分国として認めた。・・・
 当時、阿波における三好氏はいまだ織田権力に抵抗していたが、ほぼ同じ時期に長宗我部元親による阿波攻撃が本格化したことで窮地に立っていた。
 そのため、信長の軍門に降った三好康長による働きかけに応じるようになった。・・・
 <1578年>10月26日<当時、>・・・信長<へ>長宗我部氏を取り次ぐ奏者<は>光秀<だった。>
 斎藤利三の兄石谷(いしがい)頼辰の義妹(養父の娘)が元親に嫁いでいたことから、担当者として光秀が採用されたのだろう。
 <1578>年12月と言えば、荒木村重の摂津伊丹城攻めと、波多野秀治の籠る丹波八上城攻めが並行して続けられていた時期にあたる。
 村重と連携する大坂本願寺や毛利氏との対処に迫られた重要な場面であり、外交上、土佐の長宗我部氏との関係も重視されたことになる。・・・
 一方、元親との交渉は、毛利方と対峙していた羽柴秀吉も並行して進めていた。・・・
 1580<年に>・・・両者の<間に交わされた>書状・・・の二つに、両者を取り次いだ人物として斎藤・・・利三の名が登場する・・・。
 斎藤利三<(注34)>は、・・・当時光秀の重臣である。

 (注34)さいとうとしみつ(1534~1582年)。「本来の美濃斎藤氏の一族。・・・母は蜷川親順(室町幕府の重臣蜷川氏)の娘である。
 親順の孫となる蜷川親長の妻は、利三の姉妹であり、系譜上の錯誤の可能性がある。徳川実紀には、「斎藤利三は明智光秀の妹の子」と書かれているが、後世に編纂されたもので、根拠は不明。斎藤利三と明智光秀の年齢差を考えると、妹ではなく姉だとする説もある。史料として光秀の妹と記されているのは、光秀の正室(妻木氏)の姉妹である。その母は、石谷光政に再嫁し、娘(長宗我部元親正室)をもうけた。
 前室は斎藤道三の娘であったというが、史料的な裏付けはない。後室は稲葉一鉄の娘で、斎藤利宗、斎藤三存、それに末娘の福(春日局)らを産んだ。福は稲葉重通(一鉄の子)の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母となり、権勢を誇った。・・・
 また、利三の妹は、<1563>年に長宗我部元親の妻となり、嫡子長宗我部信親など九人の子供を出産している。・・・
 利三は、実兄の石谷頼辰や明智光秀と同様に幕府の奉公衆の出身であり、上京後に摂津国の松山新介に仕え京都白河の軍事をつとめる・・・、次いで斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家来になったとされるが、家来というよりは与力だった可能性が高いとする指摘もある。後に軍功の割に厚遇されていないことへの不満と一鉄への諫言を斥けられたことから稲葉家を致仕し、明智光秀から召し抱えられた。・・・
 堺の豪商津田宗及等と茶の湯を嗜む<。>・・・
 1582年・・・の本能寺の変の直前、四国の長宗我部元親が光秀の家臣で親戚関係にあった利三と・・・書状<を>・・・やりとりし<ており、>・・・元親は四国侵攻を計画していた信長の命令に従う意向を示して<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E4%B8%89

 美濃出身であり、もともとは同郷の稲葉一鉄に仕えていた。・・・
 しかし、利三が軍功をあげながらも一鉄に認められなかったため、両者の間に齟齬が生まれ、利三は稲葉氏のもとを離れて光秀の重臣になったと言われている。・・・
 斎藤利三についてもう一つ注目されるのは、彼が足利将軍の奉公衆たる美濃源氏土岐氏の一門石谷氏、あるいは幕府財政や訴訟を司る政所執事伊勢氏に仕えた蜷川氏と姻戚関係にあった点である・・・。
 そして、・・・利三の兄頼辰の義妹は長宗我部元親のもとに嫁いでいた。
 ここで重要なのは、義昭追放後も足利将軍家における奉公衆の人脈が強固に残っていたこと、そして利三が長宗我部氏との取次として重用されていたことが理解できよう。
 言うまでもなく、利三はこうした人脈を保持し、光秀の重臣でありながら秀吉の取次としても活動していた。」(161~166)

⇒福島は、室町幕府奉公衆の人脈の強固さに注目していますが、私は、そういう視点ではなく、信長/秀吉の(日蓮主義に立脚するところの)中央集権志向の武家達に対するに、室町幕府における将軍の旧部下達・・足利氏によって新たに登用された守護大名上がりやその部下上がりの戦国大名達や旧奉公衆・・を中心とする地方分権志向の武家達、という大きな対立軸が当時あった、という見方をしています。
 なお、四国を統一する勢いであった長曾我部元親に、信長も光秀も秀吉も注目したのは当たり前ですし、その元親との取次に、この3人が、それぞれ、何らかの形で、元親と縁戚であったところの斎藤利光を利用したのもまた、当たり前でしょう。(太田)

(続く)