太田述正コラム#11976(2021.4.23)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その12)>(2021.7.16公開)

 「・・・しかし、・・・戦局の変化から、次第に長宗我部氏との関係に綻びが生じてくる。・・・ 1582<年>2月9日、信長は甲斐の武田攻めにあたって条々を出したが、このとき安長に「四国へ出陣すへき」と指令している・・・。
 さらに5月7日付の信長朱印状・・・によれば、信長は三男信孝に対して、第一に讃岐国を任せる、第二に阿波国は安長に任せる、第三に土佐、伊予については信長が淡路へ出馬した際に申すと述べている。・・・

⇒この時期、信長は、軍団を東方にも西方にも派遣していたわけですが、西方の四国と中国地方にだけ、自ら出馬しようとしていたこと、そして、四国には息子の信孝を先遣し、中国には(私見では)自分が最も高く評価していた部下である秀吉を先遣したのに対し、東方には、北陸道には柴田勝家、東山道には滝川一益、という、秀吉や光秀・・親衛隊兼予備軍の司令官・・、ほど評価していなかった部下達を派遣し、東海道は徳川家康に任せていた、ことに注目すべきでしょう。
 信長がどうしてそうしたか、についての私見は、次回の東京オフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)
 
 <こ>の朱印状には元親に関する記述はなく、土佐の長宗我部氏も信長の攻撃対象になりつつあった。
 こうしたなかでも、元親は織田権力との対峙を意識しつつも、和睦交渉について一縷の望みを掛けていた。
 ・・・<1582>年と推定される正月11日付で<元親の下の>石谷光政<(注35)>宛の斎藤利三書状・・・<で>、利三<は>、・・・光政<、つまりは元親、に対し、>・・・信長に従うよう忠告<するとともに、>・・・光秀も、元親を粗略に扱わないと述べたと伝えている。・・・

 (注35)いしがいみつまさ(?~?年)。「石谷氏は美濃国方県郡石谷村(現岐阜市石谷)を本貫地とし、土岐氏の支流で清和源氏の流れを汲む。石谷氏はもともと室町将軍家に代々仕えた奉公衆の1つである<。>・・・光政は男子に恵まれなかったので、同族の土岐氏支流の明智氏の縁者である斎藤利賢の長男・頼辰を養嗣子として迎えて、長女を娶らせた。・・・<頼辰は、>妻の連れ子であり、美濃国の国盗りに関係して離縁されて、蜷川氏のもとに戻っていたのではないかと思われる。妻の実子を養子にしたという形になる。<また、>・・・1563年・・・ には蜷川親長の仲介で、次女を土佐国の戦国大名・長宗我部元親に嫁がせた。
 ・・・1565年・・・、義輝が松永久秀・三好三人衆に暗殺されたことから、娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。以後、娘婿である元親に仕え、実家の斎藤氏を頼って明智光秀の家臣となった頼辰を介して、織田信長との取次役を務めた。・・・
 出家して空然(くうねん)と号し、石谷空然の名でも知られる。・・・
 1584年・・・までは生存していたようだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%B0%B7%E5%85%89%E6%94%BF

 しかし、三好氏との関係強化により、毛利氏との前線に立っていた秀吉に<長宗我部氏等との>対外交渉の覇権が移ってしまう。
 すなわち、・・・1581<年>後半には信長による西国支配の抗争が「秀吉-三好ライン」の派閥にまとまり、少なくとも・・・<1578>年から四国政策を担っていた「光秀-長宗我部ライン」は敗北したと云われている(藤田達生<(注36)(コラム#11827、11940)>「本能寺の変研究の新段階」)。」(166~167、169)

 (注36)1958年~。愛媛大教育学部卒、神戸大博士(学術)、同大助手、三重大教育学部助教授、教授。「織豊期研究者にあって、本能寺の変研究は不可避のテーマとする立場をとっている。20年来、四国説・明智光秀と羽柴秀吉との派閥抗争・鞆幕府論の三層構造から議論を展開している<が、>・・・<最近では、>新史料にもとづき、足利義昭の帰洛に向けての動きと天下統一を目前に控えた織田政権内の矛盾がリンクして発生した政変と位置づける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E9%81%94%E7%94%9F
 「豊臣政権の基本的な性格をめぐ<って、>・・・秀吉が武力による強硬な外交政策を進めたというなどの見解と、秀吉の政策基調を社会の「平和」化にあるとする藤木久志らの見解の対立<が>ある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4

⇒明智光秀の叛逆は、たまたま「あっさり」と「成功」してしまった、が故に特別視されがちですが、そのような見方は間違いであって、失敗したところの、足利義昭・・これは実質的には叛逆であるけれど形式的には上意討ち未遂ですが・・、松永久秀、荒木村重、別所長治、らによる、ごくありふれた、対信長の、執念深い叛逆群の一つ以上でも以下でもない、というのが、しばらく前から示唆してきているところの、私の見解です。
 従って、私のこの見解に照らせば、藤田の「本能寺の変研究」も、本能寺の変だけの研究であるようであるところ、そのような「研究」は、そもそも、着手する前から、最終的に失敗に終わるのは必至であったはずです。(太田)

(続く)