太田述正コラム#11980(2021.4.25)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その14)>(2021.7.18公開)
「・・・5月29日、信長は京都本能寺に入った。
6月1日には、勅使として甘露寺経元<(注40)>、勧修寺晴豊、太政大臣の近衛前久、その子信基(のぶもと)(のち信尹(のぶただ)と改名)、前関白の九条兼孝<(注41)>(くじょうかねたか)、関白一条内基<(注42)>(いちじょううちもと)、右大臣二条昭実<(注43)>(にじょうあきざね)らが信長を訪問している・・・。
(注40)1535~1585年。「官位は正二位・権大納言。・・・、非参議・冷泉為豊の次男として誕生。当初は高倉家の後継者とされるが、後に権大納言・甘露寺伊長の養子となる。・・・
弟<に>・・・日蓮宗立本寺住持の日袖・・・がいる。・・・
・・・1570年・・・、参議。・・・1582年・・・6月1日(本能寺の変前日)、准大臣・勧修寺晴豊と共に、正親町天皇と誠仁親王の勅使として織田信長の上洛を祝うために本能寺に出かけている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%9C%B2%E5%AF%BA%E7%B5%8C%E5%85%83
(注41)1553~1636年。「二条晴良<の子。>・・・九条家第17代目当主。・・・大伯父である九条稙通の養子となり、・・・左大臣を経て・・・1578年・・・に関白・藤氏長者となったが、・・・1581年・・・、これを辞任。・・・・・・1600年・・・、再度関白に就任。・・・1604年・・・これを辞任して出家」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AD%9D
(注42)1548~1611年。「一条家13代当主。・・・1581年・・・には正親町天皇の関白、藤氏長者となった。翌年には従一位に昇る。・・・1584年・・・に左大臣・関白を辞し、二条昭実に譲る(翌年近衛信輔との間で関白相論となり、結局豊臣秀吉が関白となる)。
子に恵まれなかったため、後陽成天皇の皇子・九宮を養子とし(一条昭良)、一条家を嗣がせた(これにより一条家は皇別摂家となる)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%85%E5%9F%BA
(注43)1556~1619年。「二条晴良<の子で、>九条兼孝の弟。摂関家二条家の当主。・・・1575年・・・3月、織田信長の養女であるさごの方(赤松政秀の娘)を妻とする。・・・1584年・・・12月に左大臣・藤氏長者となり、翌年に正親町天皇の関白となるが、羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)が内大臣となるのに伴い、左大臣を辞した。
同年(1585年)5月、近衛信輔と関白の地位をめぐって口論(関白相論)となり、7月に関白職を秀吉に譲った。
秀吉死後の・・・1599年・・・、秀吉の晩年の側室だった三の丸殿(信長の六女)を娶った。」
(1613年)に養子に迎えた九条忠栄(幸家)の子に、徳川家康の偏諱を賜って康道とした。以後、二条家の歴代当主は徳川将軍家からの偏諱を受けるのが通例となった(二条家は室町時代には足利将軍家からも偏諱を受け、五摂家の中では武家と一番親しい家柄であった)。
・・・1615年・・・、後水尾天皇により関白、藤氏長者に再任され(30年ぶりの再任は極めて異例)、禁中並公家諸法度の制定にも関与して、大御所・家康および将軍・徳川秀忠とともに連署している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%98%AD%E5%AE%9F
⇒二条家は、西園寺家ほどではないけれど武家べったりの九条流の支流であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%AE%B6
どちらも二条家出身であるところの、九条兼孝とその弟である二条昭実、の本能寺訪問は、武家の最有力者たる信長への単なるゴマスリでしょうし、同じく九条流の但し嫡流の方・・<その>序列は近衛家に次ぎ、九条家とは同格、二条家、鷹司家の上位・・の一条家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%B6
の一条内基の訪問も同様だったでしょうが、近衛前久父子と勧修寺晴豊の訪問は、同志・友人としての、信長出馬激励目的だった、(晴豊の場合は公用での儀礼的訪問を兼ねる)というのが私の見方です。
(甘露寺経元の場合は、単なる、公用での儀礼的訪問だったでしょうね。)(太田)
ただ吉田兼見<(コラム#11920。前出)>は「神事」の都合のため、訪問は見合わせている・・・。・・・
<ちなみに、>本能寺は<1580>年2月26日に信長の「御座を居(す)ゑらるべきの旨」が出され、村井貞勝によって普請がなされた・・・。
以後、・・・信長による京都の宿所として使用され<てい>た。
近年、・・・発掘調査が進められ、・・・逆L字形の幅7メートル、深さ2.5メートルの堀が確認されている。」(182~183)
(続く)