太田述正コラム#11988(2021.4.29)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その18)>(2021.7.22公開)
「・・・<筒井>順慶<(注52)>にとって光秀の軍勢は、至近距離にある恐ろしい存在であった。
(注52)「光秀は謀反に際し、・・・18万石(大和の与力を合わせると45万石)の順慶と12万石の細川幽斎が味方しなかったことは、その兵力の大きさで致命傷となった。
6月14日、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に拝謁した。この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責した。秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させた・・・。6月27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の一般武将達と共に待機している。7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出し・・・秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。・・・
1584年・・・頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。大和に帰還して程なく36歳で病死した。筒井家は定次が継いだ。
順慶の重臣だった島左近は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後に石田三成の家臣となり関ヶ原の戦いに参加した。
・・・1585年・・・閏8月18日、筒井家は順慶亡き後秀吉に伊賀上野に20万石で転封された。徳川方の上杉討伐に動員されたが、上野城が攻められ留守番役の筒井玄播允が戦わず開城して逐電したとの報告で引き返した。そのため、城は取り返したが、関ヶ原の戦いには参戦できず、戦後の加増を受けることはなかった。
その後も定次は豊臣秀頼に年賀の挨拶に参城するなどしたため、家中が徳川派と豊臣派とで分裂し争うこととなった。・・・1606年・・・12月23日、上野城が火災で罹災し、その復興問題から両派による抗争が再燃した。
・・・1608年・・・、筒井家重臣・・・が家康に主君定次の悪政や鹿狩での倦怠などを訴えたため改易となり、定次と嫡子の順定は陸奥磐城平藩預かりで幽閉となった(筒井騒動)。その後、定次は・・・1615年・・・3月5日に切腹させられて、筒井家は絶家した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
この筒井定次(1562~1615年)は、「一族で本家筋の筒井順慶(従兄、母方の叔父でもある)に子が無かったため、順慶の養嗣子となった<もの>。・・・
定次は・・・1592年・・・に長崎で・・・キリスト教の洗礼を受け・・・ており、キリシタンであった事が改易原因の一つでもあると言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1
そのため、あえてあいまいな態度をとることによって、明智軍との協力も攻撃も回避できたことになる。
同時に、順慶は「国中与力」の大和国衆たちと改めて起請文を交わし、国内の秩序を保持することを最優先に考えていた。
彼もまた自らの分国の保全を第一とし、明確な軍事活動は起こさなかったのである。
⇒藤孝と順慶とでは、本能寺の変後の光秀への対応が全く異なっていたのですから、福島がこのように書くのは不適切です。
藤孝は旗幟を鮮明にしたけれど、領地のすぐ北に光秀に与した一色義定がいた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E
ので、山崎の戦いに、秀吉方に与して参戦することができなかった、というか、そのことを理由に参戦しなかった申し開きができた、のに対し、順慶は、単に洞が峠を決め込んだだけだったからです。(太田
一方、摂津方面では、高槻城のキリシタン武士高山右近に対して、光秀が勧誘を続けていた。
宣教師オルガンティーノを介して呼びかけていたが、・・・<オルガンティーノが>ポルトガル語で書いた書簡では、明智への服属を自重するよう記していた。
ただし、右近自身は中国攻めのため西へ向かっており、城を留守にしていた。・・・
光秀は、右近が「中国から帰って来れば自分の味方になるに違いない」と考えていたため、高槻城に手出しはしないと・・・右近の妻・・・ジュスタに伝え、・・・実際、光秀は摂津国への侵攻を予定しながらも、結果としてはこれを取りやめている。
当の右近は、変事を知るとただちに高槻へ引き返し、「明智の敵」であると宣言し、信孝と秀吉に味方した。
さらに摂津、そして隣接する河内の武将たちをまとめあげたという。
実際、河内国衆の大半は大坂の信孝、長秀に呼応していた。
ただ、河内三箇(さんが)(大阪府大東市)のキリシタンだった三箇頼連<(注53)>(よりつら)は、「河内国の半額」「兵士たちに分配する黄金を積んだ馬一頭」という条件を提示され、明智方に味方している。」(216~217)
(注53)「三箇城主・三箇頼照は・・・1563・・・、主君・三好長慶の居城である飯盛山城で日本人イエズス会員・ロレンソ了斎の説教に感銘を受けた。
翌・・・1564<年>に司祭・ヴィレラを招いて妻・ルシアとともに改宗し、洗礼名をサンチョといった。同年、長慶が亡くなり、後継者の三好吉継に属した。
・・・1568・・・にはロレンソやヴィレラの前でキリスト教と日本人の宗教観について演説し、彼らの高い評価を得た。
・・・1573<年、>義継が本拠・若江城を織田信長に攻められて自害すると、頼照は信長に所領を安堵されて佐久間信盛の与力となり、対石山本願寺戦の前線に立った。
頼照の領内には1500人のキリシタンが暮らし、その教会は五畿内で最も大にして美麗と称えられるほどであったという、キリスト教の一大拠点であった。
一方で領内の寺院をことごとく破壊するという行為に及んだことから、・・・1577<年、>キリスト教嫌いの多羅尾常陸介に讒訴され近江永原に幽閉されるが、信盛の取りなしによって赦され、家督を嫡子・頼連(マンショ)に譲り、信仰に専念する。
・・・1582<年の>・・・本能寺の変に頼連は明智光秀に与し、山崎の合戦に敗れて大和に落ち延び筒井定次を頼った。三箇の城は落ち、教会は焼き払われ、三箇の町は廃墟と化した。
頼連は浪人した後にキリシタンである小西行長に仕えるが、関ヶ原の戦いに敗れた行長は滅亡し、頼連の消息は不明だが、子孫は信仰を捨てて備後福山藩水野氏に仕えたという。
一方で、頼照の孫(頼連弟・頼遠の子)・三箇頼成(マティアス)は信仰を捨てず、江戸幕府による禁教令にも従わず、・・・1614<年、>高山右近らとともに国外追放となり、翌年マニラで43歳の生涯を終えた。
そして頼成の兄・三箇頼稙(アントニオ)は・・・1622・・・長崎で妻・マグダレナら信者55名とともに殉教を遂げた。」
https://ameblo.jp/settunokami-0106/entry-12475298333.html
⇒本能寺の変/山崎の戦いの頃、既に、欧州勢力は、日本の国内政治軍事情勢に影響を与えるところまで日本侵略に成功していたことが、右近や頼連(や、時期的にはそれより後ですが、定次)らの事例から分かりますが、改めて、欧州勢力の恐ろしさに背筋が凍ると共に、右近らの浅はかさに軽侮の念を禁じ得ません。(太田)
(完)