太田述正コラム#12002(2021.5.6)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その7)>(2021.7.29公開)
「・・・1572<年>・・・9月、近江の浅井攻めのさなか、信長は、義昭に17ヵ条の異見書をつきつけた。・・・
<これ>は、背後で反信長勢力をあやつる義昭への信長からの宣戦布告ともいうべきものである。
こうしたなか、10月3日、武田信玄は、大軍を率いて甲府を出陣した。
出陣とともにこのことを反信長勢力である浅井・朝倉両氏そして本願寺に伝えた。・・・
こうした信玄の動きに信長は、上杉謙信とのあいだで誓詞を交わし、信玄を背後から脅かそうとする。
また信長にとって幸いなことに、信長包囲網の一翼を担っていた越前の朝倉義景が、12月3日、突然、近江から越前に軍を引いてしまい、その包囲網の一角が綻びた。
これに対し、信玄は義昭にも本願寺にも義景の再出馬を働きかけるが、功を奏さなかった。・・・
遠江・・・で越年した信玄は、翌・・・1573<年>・・・病が重くなったため、やむなく軍を返し、4月12日、信濃駒場<(注18)>で53歳の生涯を閉じた。・・・
(注18)「実際には、駒場宿で命を落としたと言うよりは、三州街道の寒原峠から駒場に抜ける途中(山中)で1573年4月12日に亡くなり、この駒場の長岳寺に運ばれたと言うのが正しいようです。
この時、長岳寺は、武田信玄の義理の兄弟である下條家出身の六世・裕教法印が住職を務めていました。・・・
武田信玄の遺骸は、・・・重臣らの手により、極秘のうちに駒場で火葬されました。
火葬された場所は、現在の中央自動車道の北側に当たる、山の中腹と言う事で、長岳寺にて火葬された訳ではなさそうです。
そして、武田信玄の遺言通り、まだ「生きている」と言う事で、武田勢は引き続き影武者を立てて、古府中に戻ったのです。」
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運は、ここでも信長に味方した。・・・
<その少し前の>2月の終わり、将軍足利義昭は二条城の堀を掘らせ、防備をかためるとともに、三井寺光浄院暹慶<(注19)>(せんけい)に挙兵させた。・・・
(注19)1540/1541~1604年。「六角氏家臣の勢多城主山岡景之の四男として誕生した。初名は景宗。甲賀を出自とする一族の出身である。
領内にあった三井寺光浄院の住持となり、暹慶(せんけい)と号した。室町幕府の奉公衆と親しく、・・・15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられ、『耶蘇通信』では「将軍の寵臣」との記述がある。・・・
1573年・・・、信長と義昭の戦いが始ま・・・ると、他の兄弟が織田氏方に付くなか、暹慶は義昭に従った。同年2月、磯谷久次、渡辺昌らと近江国今堅田・石山に兵を入れ、暹慶自らは石山城に立て籠もって抗戦した。しかし、同月26日に織田家臣の柴田勝家に攻められ、織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏・開城した。
義昭追放後、還俗して「山岡八郎左衛門尉景友」と称し、信長に仕えた。・・・
・・・1582年・・・6月、本能寺の変で信長が横死すると、兄・景隆と共に行動し、明智光秀の降誘を拒絶。瀨田の橋を落とし、浦々の川船を隠して、その軍の近江進撃を妨害した。その後、兄らと勝家に与し、賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉により景隆が改易されたため、景友も失領した。
・・・1584年・・・の小牧・長久手の戦いでは織田信雄方に属して、佐久間信栄に従って秀吉方の伊勢国峰城を攻めた。しかし程なく天下人に台頭した秀吉の家臣となって、所領を安堵され、後に御伽衆にも加えられた。再び剃髪して道阿弥と号した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E6%99%AF%E5%8F%8B
岐阜<にいた>・・・信長は、[自らの剃髪および
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ]
義昭と人質を交換することで和睦をはかろうとするが、信玄の西上を信じている義昭はこれを拒絶した。・・・
3月29日上洛した信長は、再度義昭に和議を申し入れるが、義昭は信長が京都においた奉行の村井貞勝の屋敷をを囲み[焼き払った(上掲)<上で>]、信長の申し出を蹴った。
⇒「京では「武田信玄は3~4万人を率いて信長に近づいている」「朝倉義景は”もし信長が京にくれば2万人を率いてその背後を襲う”と公言している」「三好軍と石山本願寺勢の計15000人が京に向かっている」「赤井直正が義昭方として京に出陣する」などの風説があり、京の人々は信長が京に進軍して来ることが可能であるとは思っていなかった」(上掲)ところ、これは義昭や幕府の奉公衆達の認識でもあったと思われますが、信長が、信玄や義景の動向(注20)を的確に把握することができた、その諜報能力の高さは恐るべきものがあります。(太田)
(注20)「出兵の際、信玄は義景に対して協力を求めている。・・・すると、義景は浅井勢と共同で打って出たが、虎御前山砦の羽柴隊に敗退。12月3日には部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられる・・・。
・・・1573年・・・2月16日、信玄は顕如に対して義景の撤兵に対する恨み言を述べながらも再度の出兵を求め、顕如もまた義景の出兵を求めている。3月に義昭が正式に信長と絶縁すると、義景の上洛の噂もあったというが・・・、義景は動かなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
そこで信長は、[上京と下京への焼き討ちを命じた。驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1500枚、下京は銀800枚を信長に差し出した。信長は下京の市民を気遣い、銀を受け取らずに焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さ<ず、>(上掲)]4月4日、上京に放火し、二条城を裸城同然とした。
これに怯え、戦禍が禁裏に及ぶことを危惧した正親町天皇は、すぐさま義昭と信長の両者に和睦を働きかけ・・・4月5日・・・両者の和睦が・・・成立した・・・。・・・
⇒ここも、単に、正親町天皇が、信長のために義昭に和睦を命じた、と解すべきでしょう。(太田)
13日には、義昭の宇治槙島<(注21)>(まきしま)への退城が内々に決定した。
(注21)「かつて南山城宇治近縁には巨椋池<(おぐらいけ)>という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E5%B3%B6%E5%9F%8E
7月3日、・・・槙島城<の>・・・義昭は、ふたたび挙兵した。
信長は、すぐさま上洛し、槙島城を攻め、18日、義昭の息義尋(よしひろ)を人質にとり、その降伏を入れた。
降伏した義昭は槙島城を明け渡し、21日、三好義継の拠る河内若江城に入った。
義昭はこの後も征夷大将軍の官職を保持したが、この降伏は、事実上の室町幕府の倒壊を意味した。」(64~66、76~78)
(続く)