太田述正コラム#12006(2021.5.8)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その9)>(2021.7.31公開)

 「室町幕府倒壊のあと、正親町天皇と信長のあいだでは、お互いを探り合う時期があるが、信長の大納言・右大将任官と前後して、信長は、陣座<(注23)>(じんのざ)の新造、京都屋敷の新営、天皇の行幸計画、さらに朝廷における「五人の奉行」の設置<(注24)>などにみられるように、朝廷との関係を深めていく方向で動いた。

 (注23)「平安時代中頃から,内裏の左右近衛陣にあり,公卿が政務を評議するために着席した場所。本来は近衛の詰所であったが,のちに公卿が会議などを行う場所となった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%A3%E5%BA%A7-82415
 「近衛陣は内裏の警衛に当たる近衛の詰所」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B3%E8%BF%91%E8%A1%9B%E9%99%A3-1273570
 (注24)「1575年・・・6月末<に、>信長、訴訟制度の整備を目的に三条西実枝、勧修寺晴右、中山孝親、庭田重保、甘露寺経元ら5人を奉行に据える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%A8%A9
 三条西実枝(さねき。1511~1579年)は、「三条西家に伝わる『源氏物語』の学を集大成した『山下水』を著した。・・・1577年・・・に織田信長の推挙により大納言に任じられた(当時、権大納言のみが任じられ正官の大納言は空席とされる慣習であったが、実枝は23年ぶりに任命された)。三条西家に代々伝わる古今伝授は一子相伝の秘事であったが、息子・公国は幼かったため、やむなく弟子の細川藤孝に初学一葉を与え、・・・公国が早世すると、幽斎は実枝の孫の実条に古今伝授を伝えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%AE%9F%E6%9E%9D
 勧修寺晴右(はるすけ。1523~1577年)は、「正親町天皇の第1皇子誠仁親王<の>上臈<で、>・・・親王との間に後陽成天皇,智仁親王ら多くの王子女を儲けた」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E4%B8%8A%E6%9D%B1%E9%96%80%E9%99%A2-1083086#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus
ところの、「藤原晴子(新上東門院)の父。参議,権中納言をへて・・・1573<年>権大納言となる。翌年正二位にすすむ。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E6%99%B4%E5%8F%B3-1065111
 中山孝親(たかちか。1513~1578年)は、「藤原北家花山院家の支流、花山院忠宗の子中山忠親を祖とする・・・羽林家の家格をもつ・・・中山家」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%AE%B6
の「13代当主。・・・官位は従一位・准大臣。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%AD%9D%E8%A6%AA
 庭田重保(1525~1595年)は、「1555・・・年参議。・・・1558・・・年権中納言。・・・1575年権大納言,・・・<1576>年正二位に任ぜられる。・・・宮中の歌会によく加わっていたことが知られる。・・・[庭田家(にわたけ)は宇多源氏の流れを引く堂上家(堂上源氏)。・・・家格は羽林家。鎌倉時代末期から南北朝時代の庭田重資(1306年 – 1389年)以降、権大納言を極官とする。代々の庭田家の女子は天皇及び伏見宮家に仕え、嗣子をもうけることとなる。特に室町時代の後花園天皇(現在の皇室の先祖)及び伏見宮貞常親王(旧皇族11宮家の先祖)の生母の幸子、後柏原天皇の生母の朝子はそれぞれ庭田家の出身である。また、戦国時代には本願寺顕如の生母を出した事から、本願寺(一向一揆)と諸大名の仲介役を行った事がある。江戸時代には大原家が分かれ出た。家業は神楽。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E5%AE%B6 ]」
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E9%87%8D%E4%BF%9D-17355
 甘露寺経元(1535~1585年)は、「非参議・冷泉為豊の次男として誕生。当初は高倉家の後継者とされるが、後に権大納言・甘露寺伊長の養子となる。・・・1570年・・・、参議。・・・<後に、>正二位、権大納言<。ちなみに、>・・・[甘露寺家・・・は、藤原北家高藤流(勧修寺流)の堂上家<で>家格は名家。・・・藤長以降、笛・儒道を家業とした。・・・鎌倉時代の終わりまで「坊城」「吉田」「中御門」などと称していた。吉田経房、中御門経任、吉田定房などを出した家系である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%9C%B2%E5%AF%BA%E5%AE%B6 」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%9C%B2%E5%AF%BA%E7%B5%8C%E5%85%83

⇒この「五人」、なかなか面白い人選だという気がするのですが、深入りはしないことにしましょう。(太田)

 それに対し正親町天皇も、信長の出陣や本願寺との和平交渉などに積極的に関り、また内大臣・右大臣など信長の官位昇進を実現させるなど、信長との関係を強めていった。
 しかし、・・・1578<年>4月9日、信長は右大臣・右大将の官を、「成敗の功未だ終」らざることを表向きの理由に辞官し、子の信忠に信長の官を「譲与」するよう申し出た。
 これに対し、正親町天皇は、信長の辞官は許したが、信忠への官の「譲与」の申し出には諾否の返事をせず、事実上無視した。
 天皇あるいは朝廷の枠から解放されると同時に信忠を朝廷の「顕職」に就けることで、自らの地位を相対的に上昇させようとした信長の思惑は、この正親町天皇の対応で頓挫した。

⇒私の在職していた頃の役人の世界では、公式文書のやり取りは、事前の実質的なやり取りを経た上でなされるものであったところ、昔の日本でも同じであったはずであり、「事実上無視した」だの「頓挫した」などが起こるワケがありません。
 もともと信長は、位はもらうのはともかく、官職には就きたくなかったところ、不本意ながら就いていた官職をこの時点でついに返上したのだけれど、このことが世間でできるだけ取り沙汰されないように、あえて「事実上無視した」だの「頓挫した」などという印象を世間に与えるべく、このようなやりとりが「公式に」なされた、というのが私の理解です。
 どうして、信長が官職に就きたくなかったかについては、次回オフ会「原稿」に譲ります。(太田)

 といって両者の関係が、すぐさま悪化したかといえばそうでもない。

⇒だから、そんなことは当たり前なのです。(太田)

 正親町天皇は、信長の出陣にともなう戦勝祈願や勅使派遣をますます熱心に執り行い、またさまざまな機会を捉えて、信長を官に戻すために左大臣はじめいろいろな官へ推任し続けた。
 しかし、官を辞したあとの信長は、二条屋敷を誠仁親王に進献し、そこを事実上の第二の御所とし、また正親町天皇には誠仁親王即位を前提に譲位を求め、朝廷の新たな体制を模索しはじめた。
 さらに、信長は、朝廷に接近した時期も含め、室町将軍が行った献儀をともなうような正式の参内を一度も行っていない。
 この事実は、信長が正式参内を忌避したのか、正親町天皇がそれを許さなかったのか、両者の可能性があるが、私は、信長自らが朝廷に取り込まれることを慎重に避けたことがその要因であったと考えている。」(140~141)

⇒ここは藤井の考えに一応一票ですが、信長がどうして「慎重に避けた」かが問題であるわけです。(太田)

(続く)