太田述正コラム#12014(2021.5.12)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その13)>(2021.8.4公開)
「・・・<そして、>関白任官の宣旨のほか、秀吉を藤原氏長者<(注31)>(うじのちょうじゃ)とする宣旨、内覧<(注32)>を命じる宣旨<等も>出された。・・・
(注31)藤氏長者。「保元の乱後、忠実・頼長父子は謀反人とされ、忠通が後白河天皇の宣旨をもって藤氏長者に任じられた。これは天皇が藤氏長者の人事に干渉した最初のケースとみられるが、現任の長者である頼長が逃亡中(後に死亡)であったことによる特殊な経緯に基づくもので、その後も藤氏長者が必ずしも宣旨によって任じられた訳ではなかった。しかし、鎌倉時代に入って摂関家が分裂し、親子間での継承が行われなくなると、長者の交代に際して前任者と後任者の間でトラブルが頻発するようになり、後任者が天皇にその地位の保証を求めるために宣旨を得ることになったのが故実化して、藤氏長者が天皇の宣旨によって任じられる地位になっていった。・・・
藤氏長者は五摂家のなかでも執柄(しっぺい:摂関の唐名)にある家が継承<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85
(注32)「内覧(ないらん)とは、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ること、またはその令外官の役職。
中世までの関白は内覧の権限が明示的な権限のほぼ全てであるため、関白との血縁関係が薄かったり関白の朝臣への影響力が低かったりという理由で天皇や治天がその意見を容れない場合にはさしたる権力を持ちえなかった。人臣摂政は天皇が未成年の時に置かれたため、内覧に留まらず天皇の大権を代行する権能を有した。のちに、摂政・関白ではない左大臣・右大臣・内大臣、または納言級にも内覧の宣旨が下されることもあった。五摂家分立後は、摂関経験者に内覧の地位を与えて現職の摂関とともに政務に参与させた例も見られる。さらには、摂政・関白にも別段に内覧宣旨を下すようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%A6%A7
秀吉は内大臣任官以降、関白を退き太閤となって以降も含め、少なくとも年にほぼ一度は参内しており、一度も正式の参内をしなかった信長とは大きく異なっている。
天皇・朝廷との関係は、信長が禁裏に一定の距離を置いたのに対し、極めて接近したものであった。・・・
⇒信長は、正式参内しないこと、や、任官をしぶり、また、せっかく任官してもそれを返上したりしたこと、について、その理由を正親町天皇にも伝え、了解を得ていた、と私は想像しており、この理由を秀吉も承知している、と、正親町天皇と(その嫡子の)誠仁親王と(そのまた嫡子の)和仁親王、は思い込んでいたため、秀吉を内大臣、次いで関白、へと希望通り任官させたのに、後に秀吉がこの理由を承知していなかった、か、承知していたが無視した、ことが分かる行動に出たため、秀吉、と、即位後の和仁親王、すなわち、後陽成天皇、との間に確執が生じることになった、というのが私の見解です。
この「理由」とは、一体何であったのか、を明らかにするのは、次の次のオフ会「講演」原稿に譲ります。
ここで、ヒントをもう一つだけ申し上げておきますが、この「理由」が分かれば、秀吉が関白秀次を殺害したのがどうしてか・・様々な説が乱れ飛んでいます・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
についても、明快かつ一義的な説明を導き出すことができる、のがミソなのです。(太田)
1585<年>3月21日、秀吉は根来・雑賀の一揆平定の紀州攻めのために大坂を発し、4月26日大坂に凱旋する。
この秀吉の紀州攻めに際し、正親町天皇は伊勢神宮<等>・・・に・・・秀吉の出陣の祈願を命じた。
<そのうちの、>石清水八幡宮に宛てられた綸旨をあげておこう。
内府(秀吉)出陣の儀について御祈の事、一社一同丹誠を抽(ぬ)禁ずべきの旨、下知いたすべき由、天気候ところなり、よつて執達件(くだん)のごとし、
三月廿二日 左少弁(中御門宣光)(花押)
八幡宮検校法印御房・・・
⇒関白は、令外官ですが、「慣例として、摂政関白は、天皇臨席などの例外を除いては、太政官の会議には参加しない(あるいは決定には参与しない)慣例があり、太政大臣・左大臣が摂政・関白を兼任している場合にはその次席の大臣が太政官の首席の大臣(一上)として政務を執った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD
といった記述から、関白が(臨時の官である)太政大臣や(常設の官である)左大臣・・太政大臣がいない時は一上・・を兼ねることはあっても、一上たりえない右大臣や内大臣を兼ねることはない、と、私は思い込んでいたため、この綸旨で、秀吉が関白と内大臣とを兼ねていたことを知って、自分の不明を恥じた次第です。(太田)
このように正親町天皇は、秀吉の紀州攻めに際して秀吉側に立つことを明確にした。
この天皇の姿勢は、秀吉にとって決定的とまではいえないまでも、紀州攻めの正当性を担保するものとなった。」(167、171、173~174)
(続く)