太田述正コラム#12018(2021.5.14)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その15)>(2021.8.6公開)

—————————————————————————————–
[藤木久志を巡って]

 「・・・峰岸純夫・東京都立大学名誉教授(日本中世史)は、・・・藤木久志・・・の業績を「中近世の過渡期にあたる戦国時代を対象に一般の人々に焦点をあてた点が特筆される」と評する。
 中でも戦国期の戦場は百姓たちにとって、食料確保の場であり、そこでは「人取り」と呼ばれる奴隷狩りや人身売買が日常的に行われていたことを指摘した『雑兵たちの戦場』(1995年、2005年新版)は衝撃的だった。
 義将と呼ばれた上杉謙信が越後からたびたび関東に出兵したのも、正義のためというより、農閑期の出稼ぎが目的で、背後には、寒冷化が進み、たびたび飢饉に襲われていた当時の社会情勢があったと説いた。
 一方、略奪される側の村々も自衛を試みた。『戦国の村を行く』(1997年)では、自前の城<等>を持って軍勢の来襲時はそこにこもり、自らも武力を持って他の村と連携しながら生き抜こうとした<(注36)>戦国時代の人々の姿を描き出した。

 (注36)「鍵になるのは城や寺社等である。城郭内等に「小屋」を掛けて地域住民の戦時避難所としたり、家財や食料を隠物として穴倉に隠したり、預物として寺社や他所に預ける仕組みが出来あがっていた。豊臣秀吉による小田原城攻めや「九州征伐」にあっては、城内に大勢の領民が避難していたという記録が残されている。」
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480510242/

 さらに『刀狩り』(2005年)では、豊臣秀吉による1588年の刀狩令などについて、本質は武装解除ではなく、戦う武家の奉公人と戦わない百姓という兵農の差別化であり、民衆が武器を封印した根底には、長く厳しい戦国の世を経験した当時の人々の平和の希求があったと訴えた。
 このような藤木・・・の説には批判もあった。しかし、それまで大名研究が中心だった戦国時代史に、村落やそこに暮らす百姓の視点を持ち込んだ斬新さと、緻密な分析力は他に類を見ないものだったと言える。
 歴史を研究する意味について、朝日新聞の2010年のインタビューで「若い学生たちを教える時も、一人ひとりが歴史をいまつくっている主体なのだということを分かってほしかった」と語り、歴史学は現代と直結する学問であるとの立場を主張し続けた。・・・」
https://book.asahi.com/article/12782992

⇒藤木久志の「武器を所持しながらもそれを・・・長く<、>武器<保有しながらも、それ>を封印し、戦争を放棄して、平和を謳歌してきた日本人・・民衆・・。そのコンセンサスの歴史が、いま個人から国家(憲法九条)のレベルにいたるまで、危うく崩壊に瀕している。そうした今日の深い危機と亀裂のなかで、「一般市民のコンセンサス」のもとで、手元の武器を封印しつづけてきた、一六世紀末いらい四00年余りの日本の歴史」
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/55105.pdf
という主張に対し、畑中敏之(注37)は、前段が基本的に史実に反するとした上で、藤木の「憲法九条論は、言わば第一項だけの議論である。戦後現在に至る日本の現実において、軍隊が存在するなかで、曲がりなりにもその武器使用を抑制してきたのは、<そ>の第二項「戦力及び交戦権の否認」の存在である。今、危機に瀕しているのは、まさに、この第二項なのである。」と批判している(上掲)が、私に言わせれば、藤木も畑中もどっちもどっちだ。

 (注37)1952年~。阪大(史学)卒、同大博士(文学)、大阪府立高教員、立命館大助教授、教授、日本近世史・部落史専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%B8%AD%E6%95%8F%E4%B9%8B

 藤木批判は畑中によるものを借用するとして、畑中批判は、こと改めて行う必要はあるまい。
 この二人の日本前現代史観の歪みをもたらしているものは、このやりとりからも窺えるところの、日本現代史観の歪みであるところ、それは、究極的には、歴史学研究の個人的動機の「つましさ」に起因するところが多い歪みではないか、というのが、大変失礼ながら、私の仮説だ。
 例えば、藤木の場合、「新潟大学人文学部<の学生時代に、>・・・当初は英語を学ぶことを考えていたが、井上鋭夫による日本史の講義が面白かったので、歴史学の専門課程に進んで師事した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%A8%E4%B9%85%E5%BF%97
というのが日本史研究を志した動機であるところ、文系の学問の場合、興味だけが動機では不十分だと思う。
 また、畑中の場合、大阪府生まれ(注38)で、博士論文の『近世村落社会の身分構造』が部落問題研究所出版部から上梓されており、その後の著書も、殆どが部落問題がテーマであるところから、日本史研究を志した動機が、個人的な或いは生まれた地域に由来する、怨念的なもの、であった可能性が大であり、仮にそうだったとすれば、動機として狭すぎるように思う。

 (注38)近畿圏の部落民の総人口比は全国で最も高いと推定される。
https://blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0082-15.pdf
—————————————————————————————–

(続く)