太田述正コラム#12024(2021.5.17)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その18)>(2021.8.9公開)

 「・・・<1588>年4月<の>・・・聚楽第行幸<の2日目の15日当時、>・・・<誠仁親王の>六宮=智仁親王<(注42)>が秀吉の猶子となり関白職を継承することを約束されていたことが・・・<同>親王に宛てられた秀吉の判物<(注43)>(はんもつ)<から>・・・分かる。

 (注42)1579~1629年。「[誠仁親王の五宮=
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B ]
邦慶親王が織田信長の猶子であったのに倣い、智仁王も・・・1586年・・・、今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし・・・1589年・・・、秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約となり、同年12月に秀吉の奏請によって八条宮家を創設した。
 ・・・1591年・・・1月、親王宣下を受け、次いで元服して式部卿に任じられる。・・・1601年・・・3月、一品に叙せられた。・・・1600年・・・7月、細川幽斎から古今伝授を受け、・・・1625年・・・12月これを甥の後水尾天皇に相伝し、ここにいわゆる御所伝授の道が開かれた。さらに造庭の才にも優れ、・・・1620年・・・から家領の下桂村に別業を造営する。この桂御別業が現在の桂離宮であり、八条宮は後に桂宮と呼ばれた。
 ・・・1598年・・・、豊臣秀吉が死んだ直後に兄の後陽成天皇は当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうと考えたが、〈徳川家康<の>、智仁親王が豊臣秀吉の猶子であった<ではないか、との>〉の反対で断念している。結局、皇位は・・・1611年・・・に良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E6%99%BA%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://www.kyototuu.jp/WorldWide/MiyakeHachijyounoMiya.html (<>内)
 (注43)「判物(はんもつ)とは、室町時代から江戸時代にかけて出された武家文書の一つで、上位の立場にある者(特に征夷大将軍・大名(守護大名・戦国大名・藩主))が発給した文書のうち、差出人の花押が付されたものを指す。
 これに対して印判が付されたものを印判状(朱印状・黒印状)等と呼ぶ。・・・
 鎌倉時代に直状(直筆の書状)に下知状の要素を加えた書下状が成立し、室町時代には守護大名が征夷大将軍の御内書に倣って発給された。戦国時代には印判状と区別して判物と呼ばれ、戦国大名の命令文書では最も格式が高いものとされた。
 征夷大将軍が用いた判物は特に御判書と呼び、特に江戸幕府では10万石以上の大名家の異動(新規加封・当主交替)に対して用いられ、朱印状が用いられるそれ以下の大名との格式の差の証明とされた。
 また、大名家において家老級の重臣には判物、それ以下の武士には印判状で文書が出されるなど、判物と印判状の差出対象に格差があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A4%E7%89%A9

⇒織田信長が邦慶親王を猶子にした狙いは、今後の検討課題にしようと思います。(太田)

 いいかえれば、子のない秀吉は、その後継者を誠仁親王の子、六宮に託そうとしていたのである。 そして、この日、秀吉は、大名から誓紙をとった。・・・
 <そ>の最大の目的は第三条目<の>・・・関白秀吉の命には何事であろうといささかも背かないこと・・・にあった・・・。
 この時の誓紙の提出者は、二つのグループからなり、一つめのグループは、内大臣織田信雄、大納言徳川家康、大納言豊臣秀長、中納言豊臣秀次、参議宇喜多秀家、右近衛権少将前田利家の6人、二つめのグループは豊後侍従大友義統(よしむね)、丹後少将細川忠興ら23名である。
 さらに注意すべきは、織田信雄が平姓、徳川家康が源姓など、数名が異なる姓であるが、過半の大名が豊臣姓であり、形式的とはいえ、豊臣姓をもって擬制的同族集団を出現させ、それを通じた政権の安定が図られたのである。・・・
 後陽成天皇は、聚楽第から還御の翌日19日に、秀吉の正室北政所を従一位に叙した。
 室町幕府8代将軍足利義政の室、日野富子が・・・1465<年>に従一位に叙せられて以来のことである。・・・」(186~189)

⇒室町幕府3代将軍足利義満の御台所であった日野業子(なりこ)の、「義満の計らい」による先例
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E6%A5%AD%E5%AD%90
があったからか、日野富子が従一位に叙された経緯が、そのウィキペディアにもコトバンクにも出てきませんでした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%AD%90
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%AD%90-120587
が、日野業子も従一位に叙されているところ、その夫の義満は朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られた人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80
また、日野富子は本人自身が、「幕府の政治に専横をきわめ、・・・京都の周囲に新関を設け,米相場・賄賂・高利貸などを行って,義政をこえる勢力をもったといわれる」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%AD%90-120587 前掲
人物であったことと較べて、関白とはいえ、実質的には将軍に相当するところの武家の総棟梁でしかない秀吉の単なる正室の北政所に従一位とは、朝廷も随分はずんだものだ、という印象ですね。(太田)

(続く)