太田述正コラム#12026(2021.5.18)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その19)>(2021.8.10公開)
「1589<年>5月27日、秀吉の子、鶴松が誕生した。・・・
11月、後陽成天皇は、「六宮」に譲ることが約束されていた関白職を鶴松に譲ることを前提に近衛以下の宮家・摂家に勅問する。・・・
<その結果、>関白職の豊臣家による世襲が定まったのである。
確かに、・・・関白職を鶴松に譲ることを持ち出したのは、後陽成天皇であったが、これに先だって、秀吉側からなんらかの工作がなされた可能性もないといえないし、また後陽成天皇は六宮の行く末を心配して、このような行動に出たとも考えられるが、いまその真相を明らかにしえない。
⇒摂家筆頭の近衛家との調整なくして後陽成がこんな行動に出るはずがなく、また、近衛家が同意するはずがない以上、秀吉側が強引にねじ込んできた、という可能性しかないだろう。(太田)
結局、六宮は秀吉の猶子でなくなり、12月29日、称号を八条宮(はちじょうのみや)、一品(いつぽん)親王とすることが秀吉の上奏により決定し、智仁親王を称することになる。
そして翌年2月19日に八条宮の屋敷の縄打ちがあり、12月23日に八条宮智仁親王は新しい屋敷に移徙<(注44)>した。・・・
(注44)いし/わたまし。「居処をかえること。〈渡り坐し〉からきたといわれ,・・・神輿(しんよ)の渡御を敬っていう語。・・・古くは貴人の転居をさしたもので,移御とも記される。後世は一般に使用される言葉となった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A7%BB%E5%BE%99-665292
<ところが、>鶴松<は、>・・・朝鮮出兵を目前とした<1591>年8月5日にわずか3歳で夭折してしまう。
この鶴松の死は、ふたたび後継者問題を浮上させた。
秀吉は、すぐさま甥の秀次を養子に迎え、秀次に関白職を譲ることとした。・・・
1591<年>12月25日、「夜中関白勅許」があ<った。>・・・
さらに正月・・・29日、後陽成天皇は、・・・行幸における失態<があったとされる>・・・近衛信輔に左大臣を辞退させ、秀次を左大臣に任じた。・・・
⇒信輔の辞任も、秀吉のごり押しの結果でしょうね。
近衛前久/信輔は、再び激怒した、と想像されます。(太田)
<時計の針を戻すが、>1587<年>の島津攻めが一段落し、いまだ九州にいる時点で、秀吉は引き続き朝鮮へ兵を進めようとし、対馬の宗氏にその手筈を整えるよう求めた。
⇒繰り返しますが、これ、徳川も北条もまだ秀吉に服属していない段階の話であることに注意しましょう。(太田)
しかし、宗氏は、朝鮮と交渉し、使節を派遣させるよう取り計らうことでその場を凌いだ。
そして宗氏は、朝鮮からの使節派遣を粘り強く交渉し、ようやく使節派遣を<1590>年に実現させた。
同年7月21日に朝鮮使節は、管弦を奏でながら上洛してきた。
その時には、秀吉は小田原の北条攻めのために京を留守にしており、朝鮮使節は、大徳寺を宿所として、秀吉の帰洛を待った。
<同年>9月1日に帰洛した秀吉は、・・・後陽成天皇に新たに完成した新殿への移徙後に朝鮮の使節を召し連れ参内したいと申し入れた。・・・
10月19日、・・・<後陽成天皇は、>「高麗人」の参内を許すことはできないと伝え・・・た。・・・
さらに、同月25日に<も、>・・・再度、・・・「狛人めしつれられ候ハン事、中々あるまじく候由」との後陽成天皇の意向が再度伝えられた。
すなわち後陽成天皇は、「高麗人」に会うことを拒絶したのである。・・・
⇒藤井は、「天皇の異国人との不対面の原則は、このあたりで明確化していくようである」(197)などと、私に言わせれば、寝惚けたことを書いていますが、後陽成天皇は、朝鮮出兵に事実上反対の意思を表明した、ということでしょう。(太田)
朝鮮使節を参内させることで朝鮮の日本への臣従を演出しようとした秀吉の意図は打ち砕かれた。・・・
⇒このような評価も、私に言わせれば、ピンボケです。(太田)
5日後の11月7日、高麗人が<天皇ならぬ>秀吉のもとに参向した。・・・
1592<年>閏正月、秀吉は、東は鴨川、北は鷹峯(たかがみね)、西は紙屋川(かみやがわ)、南は九条を限りとする全長約22.5キロメートルの堀と堤とで京の町を取り囲むいわゆる御土居(おどい)の築造にとりかかった。
この御土居は、これまで秀吉による都市京都の大改造という文脈で語られてきた。
しかし、・・・近年の発掘結果からしても、門の部分には城郭の出入り口にしばしばみられる桝形や馬出しといった施設はみられず、軍事的要素は希薄であり、・・・より直接には、「唐入り」を前にして京都の治安を確保することにその目的があったようである。・・・
⇒ここは、藤井に同意します。(太田)
秀吉の「唐入り」構想は、・・・まず自らが北京に入り、そこに天皇を迎え、公家達もその地へ移し、日本の天皇には良仁(かたひと)親王か智仁親王をもってあてようとするものであり、この構想のもとでは京都はもはやその中心にはなく、北京がその中心で、北京に移るまでの間、京都を安泰に守ろうとしたのである。
肥前名護屋に向けて出陣する6ヵ月前の<1292>年9月、秀吉は、「唐入り」に向けての指示の一つとして、日本には豊臣秀次と蒲生氏郷とを残し置き、「令守帝都」すなわち京都を守らせることをあげていることからも、当時秀吉が京都をどのように位置づけていたかが窺い知れる。・・・」(190、192~200)
⇒ここでは、その背景には踏み込みませんが、秀吉は、秀次も従軍させるつもりだったのだけれど、結果的に残すことになった、というのが私の見方です。(太田)
(続く)