太田述正コラム#12044(2021.5.27)
<藤田達生『信長革命』を読む(その2)>(2021.8.19公開)
「<秀吉は、>教科書では、いまだに「尾張の地侍の家に生まれた」(現行版『詳説 日本史』山川出版社)とされているが、良質な史料の裏づけによるものではない。
近年の研究では、秀吉は百姓ではなく、差別を受け遍歴を繰り返す商人的な非農業民に出自をもつこと、若き日には木曽川筋や港湾都市・津島で才覚を磨いていた可能性が高いことが指摘されている・・・。・・・
⇒この話は、追究してみたいですね。(太田)
尾張時代の信長の軍隊の特徴は、鉄炮隊というよりも優秀な長槍(長柄(ながえ))隊だった。
信長の尾張統一過程における鉄炮保有量は、他の戦国大名と比較しても決して多くはなかった・・・。
鉄砲は、弓とともに長槍隊の側面援護をおこなう段階だったのだ。・・・
しかし長槍は長いほど重く、しなることから統一的な操作が難しく、日常的に足軽たちに軍事訓練を課さねば、大規模な槍衾を阻止的に編成することができなかった。・・・
<信長は、>長槍隊には給料を支払い生活を保障したのである。
<長い槍>は、戦国大名の軍制における兵農分離を端的に示し<てい>たのだ。・・・
信長が採用した三間半の長槍は、並み居る戦国大名のなかで最長だったといわれる。・・・
これを支えたのは、間違いなく突出した銭貨蓄積によるものである。・・・
かつて父信秀が、山科家などの京都の公家との交流をもち、朝廷や伊勢神宮へ何千貫文もの大金を献金しえたのは、津島や熱田といった有力港湾都市を掌握したことに求めることができる・・・。
商人たちの保護への反対給付として、租税を銭貨で徴収したと考えられる。
したがって信長の経済力も、父譲りの銭貨蓄積によるものだったとみてよい。・・・
信長は尾張統一の過程で、服属した寺院・領主・都市に対して旧来の諸特権を認めるとともに、「無縁所」などといわれた、それまで特定の領主に属さなかった自治権を有する寺社を中核とする都市的な場についても、制札・禁制などによる平和保障と特権安堵を通じて、直接把握していったのである。
もちろんこれらの安堵には、信長が育成しようとしている御用商人や一部の城下町を除くと、信長への莫大な判銭拠出と今後の奉仕の約束が前提としてあったと考えられる。・・・
1563<年、>信長は本拠地を清州から小牧(名古屋市)に移した。
その頃から、信長と越後国主長尾景虎(以下では上杉謙信と記す、1530~78)との接触が始まっている。
直接的には、美濃および越後に接する信濃を併呑した、甲斐の武田信玄(1521~73)を意識してのことにほかならない。
⇒その根拠を藤田は示していません。
1565年に、信長は、信玄と同盟を結び、信玄の四男勝頼に自分の養女を娶らせている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
ことからして、藤田の、かかる主張は奇異な感じを受けます。(太田)
<1564>年6月、信長は謙信の書状に返答し、以後、両者は頻繁に連絡を取り合うようになる。
筆者は、彼ら青年武将を結びつけた人物は、同年代の将軍足利義輝(1536~65)だったとみている。
義輝が、対立関係にあった三好長慶と和睦し、亡命先の近江朽木(くつき)谷から帰洛したのが<1558>年11月のことであり、翌<1559>年にはその祝儀として2月に信長が、4月には謙信が相次いで上洛しているからである。<(注3)>
(注3)信長は初上洛、謙信は二度目の上洛だった。なお、斎藤義龍もこの年に上洛している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
⇒仮に藤田の言う通りだったとすると、謙信と信長が書状をやりとりしたのが5年も経った1564年になってから、というのでは、間延びし過ぎです。
私は、従兄弟ながら義輝を見切るに至っていた近衛前久が、1559年の2月に上洛した信長に(恐らく)会ってから、その次に、5月に上洛した謙信に会い、その謙信の越後に翌1560年に下向し、1562年まで関東に滞在していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85
・・この間の1561年閏3月に、謙信は山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を、長尾景虎から上杉政虎へと改めている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1 前掲
・・ところ、この前久が、その折に、謙信に信長との交誼を勧め、謙信が熟慮期間を置いた後、これに応じた、と見るのが自然ではないでしょうか。
前久の狙いが何であったのか、は、今度のオフ会「講演」原稿で・・。(太田)
彼らは義輝に謁見したが、その際、さらに実力を蓄えて再び上洛を遂げ、三好氏を退けて室町幕府を支えるように指示された。
これに関連して、足利将軍家と信長が取って代わる管領斯波氏との、また謙信が名跡を襲名することになる関東管領山内上杉氏との関係に注目したい。・・・」(16、20~25、29)
(続く)