太田述正コラム#12054(2021.6.1)
<藤田達生『信長革命』を読む(その7)>(2021.8.24公開)
「細川–三好政権をその経済基盤から環大阪湾政権と表現するならば、それを継承した織田政権は環伊勢海と紀伊半島の付け根部分で、西から東へと一気に交替したのである。
そしてこの政権は、萌芽的ではあるが、舟運に依拠した重商主義政策を中核とする海洋国家としての本質をもつものであった。
筆者は、他の戦国大名との最大の相違はここにあるとにらんでいる。
信長が意識した海洋国家とは、港湾都市の流通と平和を保障することで租税を集積し、その卓越した資本力で兵農分離を遂げた強力な軍隊を組織して商圏をさらに広げてゆくことに本質をもった。
まさに父祖譲りの発想なのだ。
⇒「津島<は、>・・・鎌倉時代から、木曽三川を渡って尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」として発展した。また、全国天王信仰の中心地である「津島神社」の鳥居前町として、一時は尾張一豊かな町として知られた。その後、戦国時代に織田信定がこの地を押さえて、信長までの織田氏3代の経済的基盤が築かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E5%B8%82
というのですから、まさしく「父祖譲り」ではあっても、信長の「発想」でも何でもなく、信長の祖父と父が、たまたま「港湾都市の流通と平和を保障することで租税を集積」せざるをえない立場だったところ、それを継承した、というだけのことでしょう。
それを、信長が「発想」に転換させたのは、帰蝶を通じての日蓮宗信徒(にして恐らくは日蓮主義者)だったうえに、父親が元日蓮宗僧侶の油商人だったところの、斎藤道三の「発想」の影響を、正妻である(道三の娘の)帰蝶を通じて、受けたことだ、というのが私の見方です。
何しろ、日蓮宗は、京都を中心に商人達の間で広まっていましたからね。
但し、信長は、「商圏をさらに広げてゆくこと」自体にはさしたる関心などなかったでしょうが・・。(太田)
やがては、琵琶湖に面する安土に本拠を移し、伊勢海に加えて日本海と瀬戸内海という三つの海を支配し、東アジアの外交秩序の再編を意識した本格的な改革を推進してゆくのである。
いうまでもないが、この延長に秀吉の対外出兵は位置づけられる。・・・
⇒ここは、藤田とほぼ同意見です。
私と藤田との違いは、日蓮宗/日蓮主義、の契機に注目するか否か、です。(太田)
2010年・・・平尾良光(別府大学教授)は、タイ西部のソントー鉱山で生産された鉛が水運で貿易の要衝であったアユタヤやパタニ(いずれもタイ)に運ばれ、ポルトガル船などに積まれて、日本にやってきたのだろうとする見解を示している。
中国は海禁政策を国是としていたから、禁輸品である鉛や硝石を運んだのは、今井宗久<(注10)>などの堺商人とつながる東アジアの武装商人団、そしてポルトガル・スペインなどの南欧商人団やイエズス会関係者であった。
(注10)1520~1593年。「祖は近江源氏佐々木氏<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E5%AE%97%E4%B9%85
「臨済宗<の>・・・臨江寺は、・・・今井宗久の曾孫になる今井兼続が、今井家の菩提寺として創建したお寺で<あるところ、>・・・今井宗久から歴代の今井家のお墓がありますが、明治時代に今井家は東京に移ってしまったので、今は縁も薄くなってしまいました。堺には、今井家の菩提寺としてもう1つ日蓮宗のお寺があり<ます。>」
https://toursakai.jp/2020/200227_rinkouji/
⇒どうやら、今井宗久の本来の墓所は日蓮宗の寺だったようなのですが、宗久のウィキペディアには、臨江寺への言及しかありません。
信長や宗久の日蓮宗との繋がりは、日本史の研究者からも歴男/歴女からも、無視・・見て見ぬふり・・をされているようですね。
ちなみに、茶人としても名高い、当時の堺の豪商としては宗久のほかに、千利久と津田宗及が有名であるところ、千利休(1522~1591年)については、「利休が修行していた南宗寺」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
という記述しか、宗教がらみの話は出てきませんが、墓所がこの臨済宗の南宗寺にあるという
https://www.ohaka-osaka.com/meibo/num04.html
ので、日蓮宗との関係は全くなさそうであり、津田宗及(?~1591年)についても、臨済宗の「大徳寺住持の大林宗套に・・・禅を学び、後に天信の号を与えられ<、>・・・墓は堺市の南宗寺にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%AE%97%E5%8F%8A
というのですから、一見、利休と全く同じように見えるけれど、「本願寺の門徒として法眼の称も得ている。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%AE%97%E5%8F%8A-19163
ところ、これは若い時の話だと思われ、「はじめ石山本願寺[・・代々石山本願寺の御用商人<だった>
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/051.html
・・]と通じていたが、織田信長が畿内に勢力を伸ばすとこれに接近」した
https://sengoku-g.net/men/view/183
、ということは、恐らく、商売第一の観点から、浄土真宗を捨て、臨済宗に切り換えたのだと解釈すれば話の脈絡が通ります。
私は、利休が秀吉によって切腹させらたのは、日蓮宗徒の今井宗久、宗教にこだわりなどなさそうなノンポリの津田宗及、とは違って、利休が、臨済宗信徒であることを貫き通し、秀吉の日蓮主義に全く理解を示さなかったからではないか、と、想像するに至っています。(注11)(太田)
(注11)野上彌生子『秀吉と利休』(1964年)、杉本捷雄『千利休とその周辺』(1970年)が、「秀吉の朝鮮出兵を批判した<から>という説」を唱えている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91 前掲
ところ、私の説との親近性を覚えるが、二人とも小説家だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%8A%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%AD%90
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/74175.html
信長の堺商人や南欧勢力・宣教師たちとの友好関係の構築は、この点からも首肯されるところである。」(47~48、55)
⇒ここも、同感です。(太田)
(続く)