太田述正コラム#12058(2021.6.3)
<藤田達生『信長革命』を読む(その9)>(2021.8.26公開)

 「岐阜時代の信長も、・・・1573<年>7月に義昭を追放したが、彼の子息を幼君として支える姿勢を広く示していた。
 したがってこの段階においては、室町時代の伝統的秩序を否定していなかったとみてよい。

⇒そんなものは激変緩和措置に過ぎない、と、既に記したところです。(太田)

 しかし<1575>年11月に右近衛大将に任官してからは、事実上の将軍として自己を位置づけようとする。
 これが・・・「安土幕府」の草創である。・・・
 日本の場合は、・・・鉄炮が普及した<ことに伴う>・・・軍事革命によって・・・短期間で中央集権へと領主制の再編がなされたが、ヨーロッパでは分権国家体制がしばらく続き、絶対王政を経て市民革命が勃発し近代が開幕した・・・。
 あくまでも、<これを>信長が意識的に推進した点が重要なのだ。
 <1574>年の長島一向一揆掃討戦の2万人、<1575>年の越前一向一揆掃討戦の3、4万人(いずれも『信長公記』による)のように、数万人規模の死者を出すような凄惨な戦争は、鉄炮戦の一般化以前にはまずありえなかった。
 信長は、特に民衆闘争としての一揆の鎮圧には容赦なく鉄炮を大量配備した。
 安土時代の信長は、大量の鉄炮投入を背景とした野戦築城による決戦や、長期に及ぶ付城戦<(注16)>の敢行によって、敵方の戦国大名や大規模一揆を殲滅することが可能になったのである。

 (注16)「付城・・・は「敵のお城を落とすため」<のものであり、その>・・・機能<は、>・・・敵城の監視<、>敵城からの出撃の予防<、>敵城攻撃の拠点<、>食料補給の妨害<、であり、その>・・・意味<は、>・・・長期間の城攻めの際、駐屯地とするため<、>より完ぺきに敵のお城を包囲する<、>・・・付城の存在で敵兵に圧迫感、心理的ストレスを与える<、>・・・豊かさ(戦力・財力)を見せつけることで、敵の戦う意思をくじく<、ところにある。>」
https://japan-castle.website/battle/shirozeme-tsukejiro/

 これこそが、日本と言う国家が信長という改革者を得て、集権化に向けて大きく舵を切ることになる基本的条件であった。・・・」(66~67)

⇒藤田は、「信長」「信長」と、一人の名前を連呼していますが、プロト欧州文明こそ、地方分権志向文明であったけれど、後にアングロサクソン文明を部分的に継受した際に、その一環として中央集権化も行い、欧州文明へと進化を遂げるところ、日本の場合は、既に古のヤマト王権下で中央集権化がなされ、それが平安時代初期まで続いた後、私見では、上から、意識的に地方分権化が推進され、それが、これまた私見では、元寇の頃から、中央集権への回帰が課題になり始めた、という、決定的な違いが、イギリスを除く地理的意味での欧州、と、日本、の間にあることが分かっていません。
 (ローマ文明やアングロサクソン文明は中央集権志向文明であるのに対し、ギリシャ文明は地方分権志向どころか地方だけの文明でしたが、この三者は、どれも、一般通念とは違って、私はプロト欧州文明とは別物だと考えていますし、漢人文明が中央集権志向文明であることはご存知の通りです。つまり、地方分権志向のプロト欧州文明は、諸文明中の例外中の例外なのです。)
 何を私が言いたいかというと、信長は、あくまでも、日本の再中央集権化に取り組んだところの、後醍醐天皇らから始まる一連の日本人達の中における、極めて有力ではあるけれど、ワンオブゼムに過ぎない、ということです。
 もう一点は、以上からもお分かりになると思いますが、中央集権化の成否は、鉄炮のような大量破壊兵器、の出現/存在、がカギであるなどとは全く言えないことです。
 以上を銘記していただいたとの前提で、付言しておきますが、1575年「7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た<ところ、>天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
ということがあった後、同じ年の「11月4日、信長は権大納言に任じられ<、>・・・さらに11月7日には右近衛大将を兼任する<に至るが、>この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職に任じられた先例にならったものであるとも考えられる」(上掲)という経緯であったところ、信長が、どうして、一旦は任官を断り、にもかかわらずその4か月後に考えを改めたのか、が問われなければならないというのに、藤田が・・というか、日本史研究者が、誰も・・問おうとしていないのは、私には不思議でなりません。
 私の自問自答の結果については、次回のオフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)

(続く)