太田述正コラム#12066(2021.6.7)
<藤田達生『信長革命』を読む(その13)>(2021.8.30公開)
⇒信長の平姓への改姓についても、私は、異なった見解であり、信長が、自分が、仮に日本の最高権力者になったとしても、平氏であったところの、鎌倉時代の最高権力者であった北条氏、の歴代執権のように、右京権大夫・・義時や泰時の場合・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%BE%A9%E6%99%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82
や、右馬権頭・・時宗の場合・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E5%AE%97
、のような、ばっとしない中央職や、相模守・・時頼の場合・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC
のような、地方官、を超える顕官を自分は基本的に望まないし、自分が顕官に就くようなことがあったとしても、平清盛が、中納言(1159年~)、大納言(1161年~)、内大臣(1166~)、太政大臣(1167年2月~5月)、と、8年程度諸顕官を務めた後、死去する1181年までの14年間、無官の最高権力者であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
ことに倣うつもりだ(・・いや、倣いつつも、清盛よりも短期間で顕官を辞任するだろう・・)、いずれにせよ、藤原氏中のとりわけ摂関家のように摂関を始めとする顕官の職に自分が執着するようなことは決してない、旨を宣言した、というのが私の受け止め方です。(太田)
「僧形の側近集団のなかで特に注目したいのが飯尾(いのお)流の能書家として知られる楠木長諳である。
彼は、<1559>年11月に正親町天皇に願い出て、当時朝敵とされていた楠木正成の勅赦を実現し、彼自身も正成と同様の河内守に任ぜられている。
正成に自己のアイデンティティーを求め正虎と称した彼は、名分論を中核とする朱子学に通暁したイデオローグであった可能性が高い。・・・
基本的に信長文書は夕庵と長諳の2人で作成され、特に天正3年以降は長諳のものが増加するという。・・・
⇒信長が、右筆達のうち、日蓮宗信徒であったと思われる、夕庵と長諳、を重用したのは当然ですし、その後次第に夕庵が脱落していったのは、彼がピンボケの諫言居士だったからでしょう。
なお、長諳は、楠木家に代々伝わっていたと想像される、日蓮主義者たる後醍醐天皇についての面影を、信長の中に見出し、信長を深く敬愛していた、と、思いたいところです。(太田)
信長は、家臣団を競わせて短期間内に考課した。
評価されれば、秀吉のように足軽から城主になれたし、されなければ佐久間信盛や林秀貞<(注41)>のように重臣すら追放に処された。
(注41)1513~1580?年。「幼少の織田信長に那古野城(現在の名古屋市)が与えられた際に一番家老としてつけられた・・・。2番家老は平手政秀であり、まさしく信長の後見役である。・・・1546年・・・に行われた古渡城での信長の元服では介添え役を務めた。
当時の織田家臣団の例に漏れず秀貞も信長の奇行には頭を痛めており、・・・1552年・・・に信秀が死去すると信長の弟である信行擁立を画策するようになる。・・・
1553年2月25日に2番家老の平手政秀が亡くな<っている。>・・・
<信行擁立画策について>信長に赦免された後はこれまで通り織田家の家宰として清洲同盟の立会人等の外交や行政面を中心に活動した。・・・
与えられた所領の面では柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)などに追い抜かれていくが、家老(宿老)筆頭としての地位を保っていた。
<ところが、>1580年・・・8月、信長から24年も過去の信行(信勝)擁立の謀反の罪を問われて追放された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%A7%80%E8%B2%9E
平手政秀(1492~1553年)は、「織田信秀、信長の2代に仕える。・・・茶道や和歌などに通じた文化人<。>・・・自刃<。>・・・政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされている。・・・その他にも以下の説が唱えられている。
・信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるため – 美談として有名。
・信長の弟・信行を家督継承者に推す林秀貞・通具兄弟や信行の後見人である柴田勝家との対立。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%89%8B%E6%94%BF%E7%A7%80
このような現代ですらありえないような徹底した実力主義は、当然のこと劣勢になった家臣が敵方と通じて裏切りや謀反をおこす土壌を醸成する。
それが表面化するたびに、信長はモグラたたきのように、冷徹に粛清していったのだ。
信長政権の不安定性は、その構造欠陥に由来するものなのである。・・・」(81~82、89)
⇒私は、室町幕府の不安定性は、その縁故主義という構造欠陥に由来する、的な主張を行ってきたところですが、徹底した実力主義が信長政権の不安定性をもたらした、とは、全く思いません。
不安定性をもたらしたのは、信長の日蓮主義である、と、私は考えるに至っています。(太田)
(続く)