太田述正コラム#12072(2021.6.10)
<藤田達生『信長革命』を読む(その16)>(2021.9.2公開)
「秀吉は、<1583>年9月から大坂築城に本格的に着手した。
安土城を上回る壮大な城郭と城下町の建設に着手した秀吉だったが、この大事業には彼の政権構想が秘されていた。
既に朝尾直弘<(注45)>・内田九州男<(注46)>両氏によって、秀吉が大阪城下町に内裏をはじめ五山以下の諸宗派寺院の移転をおこないたいと朝廷に遷都を要請したことが指摘されている・・・。・・・
(注45)1931年~。京大文(史学)卒、同大院修士、同博士課程単位取得、同大博士(文学)、同大教授等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B0%BE%E7%9B%B4%E5%BC%98
(注46)1945年~。京大文(国史)卒、愛媛大教授等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%94%B7
フロイス書簡<や>・・・本多忠勝書状・・・<等に、この秀吉の遷都の意向が記されている。>・・・
遷都については、秀吉の発案ではなく、主君だった信長の遷都路線を継承した政権構想とみるべきである。・・・
⇒中村博司(注47)は、「<これら書簡等>に見える秀吉の発言やそれに対する朝廷の反応を裏付けるような彼らの行動は、まったくそれを確認することができないし、さらに言えば、その後、秀吉が関白に任官し、あるいは天下統一を果たした後になっても改めて大坂遷都の儀を起こそうとした痕跡は一切認められないのである。こうした諸事実を勘案すれば、秀吉がかかる発言を家康や宣教師に発したことは事実であるとしても、それを実際に朝廷側などに働きかけて実現させようとするような意志はまったく無かったのだと判断せざるを得ない。言い換えれば秀吉の「大坂遷都」発言は、・・・一種の情報操作であって、実際に朝廷や五山に働きかけたものではなかったのである。その意図についてはさしあたり彼らに対して、当時の秀吉が都をも動かし得るという自らの政治権力の大きさを示すための、一種の誇大宣伝である理解しておきたい。」(「「大坂遷都論」再考–羽柴秀吉の政権構想をめぐって–」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/125/11/125_40/_pdf/-char/ja
と、指摘しています。
(注47)1948年~。滋賀大教育学部卒、阪大博士(文学)、大阪城天守閣館長等。
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%8D%9A%E5%8F%B8
私は、この中村の批判に説得力を覚えます。
そして、秀吉に大坂への遷都構想など、実はなかったとすれば、信長に関しては、なおさら、安土への遷都構想など全くありえなかった、ということにならざるをえません。
どうして、そう見てよいか、についても、次回東京オフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)
京都方面から下街道を歩んで安土城下町に入ってきた人々の目には、神仏や朝廷(行幸後)よりも上位にある信長のイメージを焼き付けることが可能であった。
ここに、天下人信長のねらいは明瞭になるであろう。
あらゆる権威の最上位に自己を位置づけようとしたのである。・・・
⇒信長に安土への遷都構想などなかった以上、一時的行幸はあっても、行幸に伴って朝廷そのものが安土に移ることはないのですから、このような、藤田の主張は成り立ちえません。(太田)
安土城のシンボルである天主<(注48)>は、その内外に中国思想が凝縮されていた。
(注48)安土城
http://bungei.or.jp/publics/index/96/
原寸大の安土城天主(5・6階)レプリカ
https://www.azuchi-shiga.com/n-yakata.htm
・・・信長が到達した新国家建設のための中枢的政治思想である預治思想の淵源もそこに求めるべきだと考える。・・・」(146、152、154)
⇒同意できません。
私は、安土城の天主において、「信長が、日蓮主義に基づき、天下布武を手段として、天下静謐を実現させ、もって仏教が説く(私の言葉によれば)人間主義を、支那等に普及させる決意を表明した」(コラム#11912)、と、見ているからです。(太田)
(続く)