太田述正コラム#1384(2006.8.22)
<日本の対米開戦前の英国の対米工作(その2)>
先の大戦の終結と同時にスティヴンソンはBSCの全文書の廃棄を命じるとともに、部下3人にBSCの活動の公式報告書を残すように指示します。
そして作成された報告書はコピーが20部つくられ、うち8部はチャーチルら英国政府上層部や諜報機関上層部に配布されます。残った12部については、報告書執筆者の1人が保管した2部以外の10部はその後廃棄されます。
機密中の機密であることもあって、配布された8部もまたすべて廃棄されてしまった可能性が高く、残存しているのは、執筆者の一人が保管した上記の2部だけだと言われています。
ところが、1998年になって、英国政府の反対を押し切って500頁に及ぶ本の形でこの報告書が全文公刊され、そのおかげでわれわれはBSCについての詳細を知ることができるのです。
もとより、はたしてこの報告書に本当のことだけが書かれているのか、意図的にオミットした部分はないのか、また、1998年の出版の際に手が加えられていないのかどうか等、疑い出せばきりがありません。
このような留保は必要ですが、この報告書(本)に、米国人について、次のような興味深い評価が記されていることは記憶にとどめておいてよいでしょう。
・・BSCは、「米国から英国に対し十分な援助を引き出すとともに、最終的に米国を参戦させる」任務を課せられたところ、「米国の人々」をものの見事に操作してその目的を達することができたわけだが、そんなことが可能であったのは、「要するに、米国には互いにぶつかり合う様々な人種・利益・信条の人々が住んでおり、これらの人々は、彼らが全体として巨大な富と力を持っていることは自覚しつつも、一人一人は不安感を抱き、守りの態勢にある(still unsure of themselves individually, still basically on the defensive)」ため、だまされやすいからだ・・
4 BSCと日本
ここまで読まれた方は、1941年7月の日本軍の仏領インドシナ南部への進駐に対して行われた米国の対日資産凍結や石油輸出の全面禁止
(http://ja.wikipedia.org/wiki/ABCD%E5%8C%85%E5%9B%B2%E7%B6%B2
。8月22日アクセス)、そしてその後の日米交渉におけるハルノートの提示に象徴される米国の強硬な対日姿勢の背後に、日米開戦を追求したBSCの暗躍があったに違いないと思われたことでしょう。
しかし、報告書には、1940年9月の日独伊三国同盟締結の直前の8月にBSCが実施した猛烈な日独離間謀略・・ドイツの第五列による日本の政権転覆陰謀なるものをでっちあげたり、日本の国会議員のJuiji Kasai(ママ)をたぶらかして反独プロパガンダを行わせたり、サンフランシスコのラジオ局に働きかけて環太平洋の人々向けに反独放送を流したりした(注3)、・・にもかかわらず、上記同盟締結を妨害することには失敗したこと、しかしこれらの努力が最終的に米国の極東政治戦争計画(?)を進展させたこと、が記述されているにとどまります。
私としては、BSC、すなわち英国政府は、米国の対独参戦をもたらすため、米国民の間で反独感情を醸成する対米工作に一貫して努める一方で、日本を参戦させないための対日工作に日本の対米開戦直前まで努めた、と思いたいところです。
(注3)BSCは、ワシントンの日本大使館やニューヨークとサンフランシスコの日本総領事館の内部からも情報をとっていた。
いずれにせよはっきりしていることは、第一に、ローズベルト政権が、1933年の発足以来、一貫して親支那的にして半日的なスタンスをとり続けてきており、武器貸与法の下で、いやそれ以前から、中国国民党政権に対し非公式に軍事支援をしたり、蒋介石の妻の宋美齢による中国国民党の対米ロビイスト活動・・米国民の間に反日感情を醸成しようとした・・を黙認したりしたことが示すように、ローズベルト政権が、中国国民党のファシスト的体質に鈍感過ぎたことであり、第二に、1941年6月の独ソ戦勃発以降、ソ連が独日夾撃を避けようと日米戦争を起こさせるべく、日米両国向けに謀略の限りを尽くし、歴としたソ連のスパイであった当時の米財務次官補のホワイト(Harry Dexter White)をしてハルノートを強硬な内容に改めさせた可能性が高いこと等が示すように、ローズベルト政権が、共産主義勢力(スターリニズム勢力)に対して脇が甘過ぎたことです(このくだりは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88
及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88
(どちらも8月22日)を参照した)。
このような、ローズベルト政権の国際政治音痴ぶりを、BSC、すなわち英国のチャーチル政権はにがにがしい思いで見ていたのではないでしょうか。
日米開戦直後の1942年の初頭から、BSCの発意で、BSCとOSSは、国際共産主義勢力関係文書の共同研究に着手するのですが、これは、早くも来るべき冷戦を見据えていた英国政府によって行われたところの、米国政府に国際共産主義勢力の脅威に目覚めさせるための洗脳教育であったと考えられるのです。
残念ながら、この国際政治音痴の米国が、自らの経済力と軍事力を頼み、独伊とのみ戦うべく日独の離間を(英国と足並みを揃えて)追求することをせず、それどころか、結果としてであれ、日本を対米開戦に追い込み、日独伊三国すべてを敵に回して戦うという愚行を犯すことによって、独伊両ファシスト政権だけでなく、自由民主主義を信奉していた日本帝国、(更には大英帝国!)まで瓦解させてしまったことが、戦後の東アジアにいかなる惨状をもたらすことになったかをわれわれは知っています。
(続く)