太田述正コラム#12076(2021.6.12)
<藤田達生『信長革命』を読む(その18)>(2021.9.4公開)
「信長は、戦国大名たちの領土をめぐる戦争の最大の理由を、「一所懸命」的な価値観に求めた。
つまり本領の侵害という認識が、戦争を泥沼化させた要因とみたのである。
大名同士の長期戦は、領国を疲弊させたばかりか、山城国一揆<(コラム#11862)>や播磨国一揆<(注51)>のような大規模一揆を勃発させ、武士団が追い出される可能性すらあった。
(注51)「将軍の代替りという幕府権力の動揺など政治的条件が重なるなかで、・・・1428・・・年近江坂本(滋賀県大津市)に蜂起した土一揆は、徳政(とくせい)(債務破棄)を要求して京都の土倉(どそう)を襲撃、これが奈良、播磨へと波及していった。播磨国の土一揆は、土民が在地徳政とよばれる私(し)徳政を実現し、諸荘園の代官に攻撃を加え、守護の軍兵をはじめ国中の侍をことごとく追い落とすという事態に発展した。このため京都にあった守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)は播磨の守護代浦上(うらがみ)氏らに命じて鎮圧させた。しかし、土一揆は守護不入地の矢野荘(相生(あいおい)市)をはじめ多くの寺社領荘園を拠点に郡規模での広域的な抵抗を試み、翌年に及んでもなおいくつかの荘園で蜂起が続いた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%92%AD%E7%A3%A8%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86-1578522
国一揆一般については、下掲。↓
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86-55696
長島一向一揆に代表される戦国時代末期の一向一揆<(注52)>においては、将軍義昭の推戴と反信長勢力との連合という共通の政治路線が貫かれていた。
(注52)「一向一揆を蜂起の原因からみると次のように分類できる。すなわち信仰擁護のためのもの、地域で多数派化した門徒が非門徒とも連合して地域または一国の支配権獲得を目ざした国一揆的性格の強いもの、「門跡領主」本願寺の軍事力として動員されたもの、天下統一を目ざす信長との対決などである。いずれの場合も根底には信仰の擁護とともに、重層的な土地所有体制を最大限に利用して、負担の軽減を図った小領主と農民の強い要求があった。それに本願寺法主を主君と仰ぐ国人層の地域支配要求が重なって強大な軍事力となり、本願寺をして戦国時代の一大政治勢力に押し上げ、戦国大名とは異なる封建支配の体制を形成したといえる。それゆえに剰余の一元的収奪体制の構築を図る戦国大名、その覇者としての信長との対決は不可避であったのである。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-31456
この時期に誕生した甲賀郡中惣<(注53)>や伊賀惣国一揆などの大規模一揆においても、これは同様であった。
(注53)「甲賀・・・郡内には甲賀53家と総称される・・・国人・・・地侍土豪が群居した。彼らは同名惣と称する同姓集団を基礎に団結していたが,それが小地域的に連合して伴,山中,美濃部3氏による柏木三方惣のような小地域連合をもち,さらにそれを1郡規模に拡大したのが甲賀郡中惣である。
⇒「長島一向一揆・・・これは同様であった」と全く同じ文章を前に(コラム#12052で)紹介し、批判済みであり、藤田・角川書店、が、校正不足のまま、この本を上梓したことがバレバレです。(太田)
国人領主や村落上層である土豪層をリーダーとする一揆組織は、戦時ばかりか日常的にも住民を支配する地域権力へと成長しつつあり、室町時代の土一揆のような、一過性の農民闘争とは質を異にしていた。
信長は長島一揆を征圧した直後の(<1574>年)9月30日付書状・・・で、この一揆勢に対する「根切り」すなわち根こそぎの虐殺は、「天下のため」のものであると述べている。
赦免をしたのちも執拗に抵抗する百姓を、徹底的に弾圧することを正当化したのである・・・。
さらに<1575>年の越前一向一揆平定後、柴田勝家が刀狩りを実施し、武器を農具や九頭竜川の舟橋を繋ぐ鎖に加工したという伝承もある。・・・
信長の身分政策に、民衆の武装解除が位置づけられていたことを示唆している。
内外の危機によって武士階級の共倒れを回避すべく、沈思黙考の末に彼が到達したのが、預治思想であった。
これに関して信長は、<1580>年8月12日付で指令した九州停戦令・・・において、島津氏に対して来年には毛利氏を攻撃するので大友氏との戦闘を停止し双方が和睦するように命じ、毛利氏攻撃に積極的に協力することが、信長に対してではなく「天下に対する大忠」であると表明したことが重要である。
従来、戦国大名間の紛争を停止させ、その軍勢を動員する権限は、将軍大権に属した。
信長は、依然として義昭を支える島津氏に対して、将軍権力を超越した「天下」への服従を求めたのである。
⇒「依然として義昭を支える島津氏」というのは、藤田の勘違いでは?
足利義昭の京都追放(1973年)後の島津家当主の島津義久による島津家の勢力圏拡大は、当初は日向国の伊東氏、その後は豊後国を本拠とする大友氏の侵攻に対処した結果に過ぎず、義昭とは何の関係もないからです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85 (太田)
・・・<1581>年になると、信長は自らを「国王であり内裏である」とさえ述べている。
将軍と天皇の権限を統合した存在であり、天から支配権を付託された絶対者として自己を位置づけたのであり、これこそが天下人なのであった。・・・」(168~169)
⇒これは1569年にフロイスが岐阜を訪問した際の信長の言だというわけですが、信長は、「内裏も公方様も気にするには及ばぬ、すべては予の権力の下にあ<る>」と述べた(コラム♯11990)と藤田は紹介したばかりだというのに、こんなに表現(現代語訳)を大きく変えてしまうとは、これもまた校正不足の露呈、ということにしておきましょうか。
前に紹介された表現の方が正しい
https://rekishizuki.com/archives/1331
のです。(太田)
(続く)