太田述正コラム#12078(2021.6.13)
<藤田達生『信長革命』を読む(その19)>(2021.9.5公開)

 「信長段階の検地というのは、従来は差出検地といって政権や大名が直接立入り調査することなく、領内の家臣・寺社にそれぞれ知行する土地の等級・面積・作人・分米などを書いて差出させた検地のことで、検地役人が立ち入って実施した太閤検地とは区別されてきた。
 しかし近年は、柴田勝家が<1577>年に実施した越前検地に織豊政権の検地における石高制の編成政策の起点を求め、秀吉は信長の政策を継承したとする見方が提示されている・・・。・・・
 大和における一国規模の検地の重点<も>、国内領主の知行地の厳密な掌握にあった。
 確かに、加地子などの中間得分は一部残存しつつも石高制によるその把握は、領主層に対する軍事奉公、すなわち軍役の賦課基準の確定を目的としたもので、その結果、加重な軍役に対応できる強力な軍隊が誕生した。
 一国規模の城割と検地の完了した大和は、信長の朱印状で筒井順慶に預けられる。
 この間、大和一国は信長の下に収公されていたのであって、検地期間中、筒井氏は安土に留め置かれており、信長から派遣された上使–瀧川一益と明智光秀によって改めて筒井氏に預け置かれたのだった・・・。
 一国規模の私領の収公による公領化は、まさしく「革命」というにふさわしい。
 ここで、信長革命の段階についてまとめたい。
 A 一国規模で服属地の大名・領主からの人質徴発・城割。検地を断行する。
 これによって、領地・領民・城郭を信長政権のもとに収公することができた。
 B 信長が決定した国主以下の大名に領地・領民・城郭を預け、家臣団とともに地域の拠点城下町に集住させる。

⇒このくだりは首肯できます。(太田)

 ・・・秀吉はこれらの施策をマニュアル化して一国単位で執行すべき「国置目<(注54)>」(仕置令<(注55)>)として、天下統一戦を通じて全国に及ぼした。

 (注54)おきめ。「中世末期、また近世の為政者、武将あるいは惣(そう)などのつくった規定や法律の類。掟。」
https://kotobank.jp/word/%E7%BD%AE%E7%9B%AE-451629
 (注55)「1994年、藤田達生氏は・・・「惣無事令」にかわって豊臣政権の統一政策として「仕置令」を提起している。こ<れ>に先立ち藤田氏は、1991年、・・・と1993年、・・・秀吉による国分を取り上げ、・・・惣無事令に基づく国分理解を批判し、その性格を軍事的征圧による強制執行であるとし、さらにここで秀吉への服属後の「仕置令」の存在を論証し、惣無事令が成り立たないと主張する。・・・惣無事令がなりたたないとする主張には耳を傾けたいが、この提起は、令をもって令に替えるものであり、豊臣政権に政策基調としての一貫した令があるという観念になお呪縛されている。」(藤井譲治「<論説>「惣無事」はあれど「惣無事令」はなし」(2010年5月31日)より)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240126/1/shirin_093_3_361.pdf 国分(くにわけ)には、「毛利輝元の同盟関係が成立した・・・1583年・・・以降、秀吉政権によっておこなわれた、山陰道・山陽道にあたる中国路に対する大名など諸領主への領土配分のことである・・・中国国分」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%88%86
「四国攻めが終わった後、・・・1585年・・・8月からその戦後処理として豊臣政権によっておこなわれた、​四国地方に対する大名など諸領主の領土配分のことである・・・四国国分」
https://www.wikiwand.com/ja/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%88%86
「豊臣秀吉による九州攻め(九州平定)ののちの・・・1587年・・・6月、豊臣政権によって行なわれた九州地方の大名の領土配分のことである・・・九州国分」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E5%88%86
がある。

⇒ここでは、「注55」の論争には立ち入りませんが、秀吉の「仕置令」なるものは、藤田の頭の中にだけあるもの、のようですね。
 置目ならぬ国置目についても、同様のようです。(太田)

 それによって、中世的な私領は否定されたのである。
 城割は、大和ばかりではなく畿内全域規模で断行されたようだ。・・・
 さらに重要なのは、・・・光秀の家中軍法のように、検地に伴って大名・領主に対して知行高百石につき何人という軍勢動員の賦課、すなわち軍役の基準を定めて出陣を命じるようになったことである。
 光秀が関与した大和をはじめ、丹波・丹後や和泉など、この頃検地が執行された畿内周辺諸国では一斉に新たな軍役基準が導入され、軍隊に質的転換をもたらした可能性は高いと考える。
 城割と検地によって、軍事に専念する職業軍人と、その後方を支える専業農民との分離、すなわち兵農分離が実現し、他の戦国大名の追随を許さぬ強力な常備軍が誕生したのである。
 信長の改革を通じて、私領の安堵を中核とする中世的な領主権が否定され、所領・領民・城郭の預け置きを本質とする集権的な軍事専制国家が誕生しようとしていたのだ。・・・」(172~174)
 
⇒プロト欧州文明由来の「中世」という概念を援用した「中世的な領主権」を、どうせなら、漢人文明とプロト欧州文明双方に由来する概念を援用した「封建制社会」で、かつまた、いささかおどろおどろしい「集権的な軍事専制国家」という言葉を「中央集権国家」で、それぞれ置き換えれば、このくだりにも、私は異存はありません。
 なお、私は、光秀は、封建制社会日本を中央集権国家に転換/回帰させるところの、日蓮主義に立脚する信長のこの政策等、に反対であった、と見ている次第です。(太田)

(続く)