太田述正コラム#12084(2021.6.16)
<藤田達生『信長革命』を読む(その22)>(2021.9.8公開)

 「信長は、統一戦争を通じて諸大名から本主権を奪い、諸国に官僚化した大名クラスの重臣を派遣しようとしたのである。
 しかし現実的には、安土を中心とする畿内近国に官僚的な一門・近習を大名として抜擢し、中間地域には大名クラスの重臣層を配置し、遠国においては服属大名(外様大名)の本領を安堵するという、郡県制と封建制が共生するいわゆる「郡国制」からスタートせざるをえなかったと考える。・・・
 劉邦は、新国家づくりの中枢に郡国制を置いた。
 これは、秦が施行した郡県制の強行の失敗と、周代の封建制の復活を考慮して導入されたものであった。
 王都長安の周辺は中央直轄地として郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用した。
 その後、歴代皇帝は諸侯勢力の削減に努め、事実上の郡県制へと移行したという。<(注60)>

 (注60)「第6代景帝の時代に勢力削減に反対する諸侯らによる呉楚七国の乱を鎮圧したのち、第7代武帝の頃に事実上の郡県制へと移行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E5%9B%BD%E5%88%B6

⇒その限りにおいては、このくだりは啓発的ですね。(太田)

 従来の近世史研究において、預治思想の淵源については議論されることがなかった。・・・
 筆者は信長の思想を起点と位置づける。・・・
 従来、所領紛争は、大名にとって自力救済すなわち戦争で解決することが権利であり、常識であった。
 信長は、<1580年>8月12日付で大友氏と島津氏に対して・・・停戦令・・・を発令した。・・・
 重要なのは、島津氏に対して停戦令を受け入れることを「天下に対する大忠たるべく候」と表現していることである。
 信長は、これまで将軍や天皇を利用しながらも、一貫して武力による勢力拡大に努めてきたのだが、近畿から東海地域に及ぶ大版図を形成し、大坂本願寺とも講和したこの段階に至って、新たな支配論理を展開するようになった。
 これこそ彼がしばしば強調した、天皇や将軍の権威を包摂する「天下思想」である。
 これを掲げて諸戦国大名に停戦・従属を求めることは、武力統一を早期実現するための方策とも考えられるが、むしろ遠国の戦国大名の要望を受けてのものともみられる。
 かつて今川・武田・北条・上杉をはじめとする有力戦国大名は、相互に国分(くにわけ)協定を締結していた。
 しかし信長の軍事行動によって、これらは無効にされ、織田領に組み込まれつつあった。
 この地域における戦国期国分は、信長の実力によって消滅していったのだ。
 これに対して九州や奥羽などの遠国では、ようやく島津・伊達などの強大な戦国大名が台頭しはじめており、それにもとづく勢力地図の変化に伴って、当地域の諸大名が様々な思惑から、足利将軍にかわる「公儀」権力として信長に接近してきたのである。
 たとえば先の停戦令を受け容れた島津義<久> は、<1581年>6月28日付の書状で「上様御朱印忝(かたじけ)なくも拝領せめ候」・・・と回答している。<(注61)>」(183~186)

 (注61)「1580年・・・、島津氏と織田信長との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の近衛前久が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾し、・・・1582年・・・後半の毛利攻めに参陣する計画を立てていたが、本能寺の変で信長が倒れたことにより実現はしなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
 島津義久(1533~1611年)は、「将軍足利義輝から諱の1字をもらい義辰と名乗り,近衛家を通して修理大夫の官を獲得し,・・・1566・・・年家督を継承した。その後,薩摩(鹿児島県)北部の菱刈氏を破り薩摩国を分国化し,大隅国(鹿児島県)の伊地知・肝付氏を破り同国も分国に加えた。・・・1577・・・年には伊東氏を日向国(宮崎県)から追放し,翌年豊後(大分県)大友氏を日向耳川に下し,南九州3国を領する大名となった。こののち,イエズス会との間で鹿児島に司祭館を建設し直轄貿易港山川で南蛮貿易を行う計画を進めたが,肥前(佐賀県,長崎県)竜造寺氏を倒し北九州への影響力行使が可能になると計画は中止された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85-75150

⇒もっと早い段階から、近衛前久/島津義久は、信長に積極的に協力しようとしていて、ようやく、その協力が「自然に見える」段階まで、信長の勢力が伸長してきた、ということだった、というのが私の見方です。
 信長の日本統一を早めないと、信長の代で大陸に出兵するところまで漕ぎつけられない、という、彼らの思いからだったのではないでしょうか。
 もとより、信長としても、異存などあるはずがなかった、と。(太田)

(続く)