太田述正コラム#12088(2021.6.18)
<藤田達生『信長革命』を読む(その24)>(2021.9.10公開)

 「・・・信長は、畿内を統一する過程で岐阜と京都を結ぶ近江の支配を重視した。
 ・・・ここには光秀をはじめ羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀らの重臣を配置していた。
 そののち信長が全国的に版図を拡大する過程で、彼らは各方面軍の司令官として最前線に派遣された。
 たとえば、北国方面担当の勝家が越前を預けられると、近江の所領が没収されたように、織田領国の境界地域を守備する国主級の大名として、彼らは次々と自立していった。
 しかし光秀と秀吉のみは、近江の所領を維持していた。
 これについて、谷口克広<(コラム#11906、11914)>氏が興味深い指摘をしている・・・。
 谷口氏は、<1581>年9月に信長近習の堀秀政<(コラム#11978)>に秀吉の近江長浜<を>与え<ることを約束し>、翌年に長浜城と2万5千石の知行地が渡される予定だったと指摘する。
 また<1581>年2月には、信長が近習の菅谷長頼<(注64)>に勝家の越前府中の跡職を与えることを約束し、翌年から所務の受け渡しがおこなわれるはずだったことも明らかにした。

 (注64)菅屋長頼(すがやながより。?~1582年)。「姓は「菅谷」と書かれる事も。・・・長頼は織田信房の二男であるが、織田氏の一族ではなく、別姓を名乗っていた信房がその功績により織田姓を与えられたと伝わる。・・・元服前後に菅屋姓を名乗ったものと考えられる。・・・
 初期の頃は馬廻として戦に赴く信長に付き従って行動していた長頼であったが、程なくして各種奉行に用いられるようになる。・・・
 子として角蔵、勝次郎の2人の息子がいたが、本能寺の変において角蔵は本能寺で、勝次郎は長頼とともに二条新御所で討死しており、子孫は伝わっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%B1%8B%E9%95%B7%E9%A0%BC

 これらから、谷口氏は当時の信長には「近国掌握構想」があったと結論づけた。
 具体的には、畿内とその周辺地域、近江から西美濃、越前あたりまでも含めた範囲を信長が直接掌握し、堀や菅谷などの実力ある青年近習層を大名に昇格させて、要所に配置するというものである。
 この流れからみると、次は光秀の支配地である近江国志賀郡を誰かに与える予定ではなかったかと推測している。
 一門と有能な側近たちを取り立てて近畿とその周辺地域に配置し、政権の中枢に位置づける。
 重臣層にはさらに国替を強制して、拡大した織田領の最前線を守備させる。
 筆者も、これこそが天下統一後を見据えた信長の国家構想だったと考える。
 これは、青年期を迎え成長しつつあった一門・近習たちが権力を掌握し、光秀ら政権中枢にあった老臣たちが実質的に退陣すること、すなわち世代交代に直結するのは明白であった。・・・
 このような状況下、ひとり秀吉だけは抜け目なく一門・近習たちと良好な関係を築いていた。
 これに対して近畿地方の支配に関与した光秀は、彼らとはライバルの関係にあった。・・・
 奥羽の伊達氏は、<1573>年に当主輝宗が信長に鷹を進上しており、北奥羽の安東氏(秋田氏)も、<1574>年に当主愛季(よしすえ)が信長に鷹を進上している。・・・
 また<1579>年には出羽大宝寺氏が馬や鷹を、陸奥遠野氏が白鷹を献上している。
 大名・領主にとって将軍などの権力者に対する鷹献上は、古来、主従関係の確認のための贈答行為と位置づけられていた。・・・
 本能寺の変が発生しなければ、<1582>年後半には実質的な天下統一が実現することになっていたのである。
 それを受けて、老齢の正親町天皇の退位がようやく実現したであろう。
 そして信長の庇護のもとにあった誠仁(さねひと)親王が即位して、安土行幸がおこなわれることになっていたと予想される。
 戦国時代を通じて京都を離れたことのなかった天皇が、信長に対してわざわざ代替わりの挨拶に行くのである。
 これは天皇を頂点とする中世的な権威構造の変革を決定づける、重大な儀式になるはずだった。

⇒これは異なことを承ります。
 「中世」は遅くとも鎌倉時代からのはずですが、鎌倉時代にも、後鳥羽上皇は熊野詣を行っていますし、室町時代に入ってからは、後醍醐天皇は、吉野に「亡命」しましたし、その後の南朝の3名の天皇は、基本的に京都にはいなかったのですからね。(太田)

 しかもそれが前述したように遷都であったとすると、未曾有の事態が想定されよう。
 安土城内に、天主の信長という事実上の将軍権力と本丸御殿の新天皇が、向き合う形で同居したのだ。
 つまり、天皇の「朝廷」と信長の「幕府」が一体化する公武一統の理念が、安土城内に現出する予定だったのである。・・・」(203~207)

⇒私は、次のオフ会「講演」原稿で明らかにする理由から、信長に安土遷都の考えなどなかったと見ていますし、そもそも、御所だけあっても、様々な職分を背負った諸公家の総体が安土に移らない限り、安土で朝廷は成り立たないのであって、諸公家が自分達の邸宅群を安土に建設した、或いは信長が建設させようとした、という話がない、というだけで、安土遷都論は成り立たないでしょう。(太田)

(続く)